ニホンオオカミが絶滅した地域ではなにが起こっているか
このように、生きものの輪が乱れて生態系のバランスに大きな不具合が生じた一つの例として、ラッコとステラーカイギュウの関係が知られています。海藻を食べるウニをラッコが捕食することによって、カイギュウが食べる海藻が維持されていたのですが、ラッコが人間の狩猟によっていなくなったため、ウニが増えすぎ、エサとなる海藻が激減してステラーカイギュウが絶滅する大きな原因となったのです。
しかし、海藻が減って困るのは、カイギュウ(ジュゴンやマナティーも含む)だけではありません。
海藻は、海中の森を形成します。海藻がおいしげる場所は、藻場とか海中林(ケルプ・フォレスト)とも呼ばれ、魚類やカニなどの甲殻類など、様々な生きものたちの宝庫です。藻場は、大陸棚(大陸周辺の比較的浅い海)の生態系を支える重要な役割を果たしています。
つまり、ラッコという頂点捕食者がいなくなることで、カイギュウだけではなく、海中の植物群に支えられていた多くの生きものたちも生きていけなくなるのです。
日本ではここ10年間で、農地を囲むシカやイノシシよけの柵をいたるところで目にするようになりました。これだけ草食動物が増えたのには、温暖化によって冬越しできる個体数が増えたことや、山村地域での人口減少など複数の理由がありますが、ニホンオオカミが絶滅して頂点捕食者がいなくなったことも、無関係ではないでしょう。
特にシカによる食害は深刻な問題です。被害がひどいところでは森林内の下草が全滅し、地面がむき出しになっています。地面をおおう下草がなくなると、土が風化し、斜面では土がくずれ落ちたりします。大雨の時には土が流出し、それが川に流れこむと、川の生きものにも被害がおよぶことになります。
また、シカにも好き嫌いがあるため、シカの好む植物は減少し、嫌いな植物ばかりが増えます。そうすると、森の植物の構成も変化していきます。その結果、シカが好む植物にたよっている生きもの、特に幼虫の食べる植物の種類が決まっているチョウ類などは減ってしまいます。
逆に、シカが嫌いな植物をあてにしている生きものは増えていきます。こうして生態系のバランスがくずれ、多様性だけでなく、森の機能も低下するのです。このように、草食動物が増えることによる悪影響は想像以上に深刻なものです。
猛獣がいない世界は、平和な世界ではない
では、ニホンオオカミが果たしてきた役割(オオカミが利用してきた生態的ニッチ)を、誰がどうやって果たしていけばよいのでしょうか? 狩猟をする人の数は少ないですし、シカを殺すのはかわいそうだと反対する人もいます。生きものを殺すことを「かわいそう」と思う、優しい気持ちは大切です。
しかし、増え続ける草食動物をこのままにしておいたら、生きものの輪はさらに壊れ、街で暮らす人間の目につかないところでより多くの生きものたちが死んでゆき、結果的に多くの種が絶滅に追いこまれる可能性があります。猛獣と呼ばれる捕食者なき世界は、じつは平和な世界ではなく、生態系に不調和が広がる、荒廃した世界にもなりえるのです。