「石橋を渡らない」が燃料電池に挑戦する

2009年7月、新日本石油が提携する三洋電機の東京製作所(群馬県)から、エネファームの第一号機が出荷された。これを新たな決意で見送った男がいる。

2009年7月、初出荷を迎えたエネファーム。(新日本石油=写真提供)

「10年後、20年後には、いま給湯器を付けるように、家を建てればエネファームを付けるのは当たり前、という状態にしたい。そういう思いで送り出しました」

男の名は折橋竜介。FC・ソーラー事業部に属する、入社12年目の中堅社員だ。

エネファームとは、新日石が開発した家庭用燃料電池。都市ガスやLPガスから水素を取り出し、酸素と反応させて電気をつくりだすと同時に、発電時の熱で給湯も行うというエコプロダクツだ。

折橋がFC・ソーラー事業部に移ってきたのは、約1年前の09年4月のこと。新日石が実施している「エントリー制度」を利用した異動だった。

折橋竜介●新日本石油 FC・ソーラー事業部 新エネルギー企画グループ。1998年、横浜国立大学経済学部卒業、日本石油入社。北海道支店などを経て、2009年4月より現職。

エントリー制度が始まったのは04年のこと。発端は、渡文明社長(当時、現会長)の旗振りによる人事制度の総見直しだった。

新日石の前身である日本石油が新潟県で発足したのは1888年のことだ。社名こそ、1999年に三菱石油との合併で「日石三菱」、02年に東北石油・興亜石油との合併で現社名へと変更してきたものの、100年以上にわたり石油元売りのトップとして業界に君臨してきた名門企業である。いうなれば、石油さえ売っていれば困ることは何もなかった。それがゆえに、旧日本石油の社風は「石橋をたたいても渡らないといわれるほど超慎重な社風だった」(加藤仁人事部長)。入社後のキャリアも、一度、管理畑、営業畑に配属されると、定年までずっとそこで働くという縦割り色の強いものだった。

だが、時代は動く。96年には特定石油製品輸入暫定措置法が廃止されて、ガソリンなどの輸入が自由化。その後、環境問題の高まりや新興国の台頭による石油価格の高騰もあって、石油に対する需要が構造的に減少し始める。

「それまでの生き方ではやっていけない。石油以外にもビジネスを広げていかなければいけない。そのために、人事制度を抜本的に見直した」(加藤人事部長)