ニコンの研究員が光通信機器をロシア軍事関係者に渡した
――光学機器メーカーのニコンでは、機器そのものが持ち出される事件があった。
ニコンの研究員が軍事転用可能な光通信機器「可変光減衰器(VOA:Variable Optical Attenuator素子)」を持ち出し、在日ロシア連邦通商代表部の部員に渡したとして、警視庁公安部が2006年8月、2人を窃盗容疑で書類送検した事件だ。
ロシア側が通商代表部の肩書で近づいてきたのは、サベリエフ事件と共通する。この部員はロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)に所属していた。ロシア軍の通信基盤技術の改善に利用することが技術情報入手の目的だったのだろう。
研究員はニコンに在籍していた05年2月、自分が中心になって開発していたVOA素子を持ち出し、ロシアの部員に渡した。VOA素子は、光ファイバーを流れる光の波長を制御する最先端機器で手のひらに収まる程の大きさだ。したがって、社外への持ち出しも容易だったのだろう。大量の情報を瞬時に送信するために不可欠の技術とされる光ファイバーと一緒に使うことで、ミサイルの制御や誘導に転用できる。ニコン社内でも機密扱いになっていた。
――どうやってミサイルの誘導に使うのか。
「有線誘導方式」というミサイルがある。ミサイル後部からワイヤーが伸びていて射手までつながっているものだ。ミサイルの先端にある赤外線センサーで感知した前方の画像を、光ファイバーで射手まで送り、破壊目標までミサイルを誘導する。そのために、VOA素子を使うことができる。
やはり展示会で接近し、居酒屋などで密会していた
――ロシア側はどういう場を利用して研究員に近づいたのか。
04年春に都内で開かれた展示会で、研究員に「在日ロシア連邦通商代表部」の名刺を差し出して近づいた。その後、複数回にわたり、都内の居酒屋などで密会していた。
展示会で接触し、飲食店で密会を繰り返したのもサベリエフ事件と同じ手口だ。
部員は当初、論文などの提供を求めるだけだったが、やがてVOA素子そのものを求めるようになった。研究員はVOA素子をそのまま持ち出して部員に渡していた。VOA素子はロシアに運び込まれたのだろう。研究員は見返りとして現金計数万円をもらっていた。もちろん、研究開発にはこれとは比べようもない多額の資金を企業側は投入したと思う。
部員はやがて、ミサイルの命中精度を高める赤外線センサー技術の提供も求めるようになった。これに対し、研究員はサベリエフ事件が報道されたのをきっかけに不信感を抱くようになり、部員との密会をやめ、赤外線技術も提供しなかった。
――ロシアの部員はどうなったのか。
警視庁から出頭要請を受けた翌日、ロシアに出国してしまった。サベリエフ事件もそうなのだが、出頭を要請すると帰国するケースがほとんどである。
この事件も最終的に起訴猶予になった。
※本稿の説明は、当該事件当時の各種報道、警察白書の当該部分、警察庁警備局編集の『焦点』及び『治安の回顧と展望』の当該部分、外事事件研究会『戦後の外事事件 スパイ・拉致・不正輸出』東京法令出版(2007年)の当該部分、拙著『情報と国家』中央公論新社(2021年)の当該部分、当該事件の受任弁護側から開示されたと思料されるネット上の各種資料、その他研究者による事件関連論文等の公表又は開示された資料に基づいている。