社員は「飲み代欲しさに断れなかった」と供述

いずれも、警察当局による監視をくぐり抜けるために行われてきた。

私が外事課長になったころには、ソ連邦崩壊後10年以上が経過して、こういうテクニックが使われなくなりつつあった。情報技術を駆使した他の連絡手段が発達したことが大きな原因だ。冷戦期に熟達したテクニックと長年対決してきた捜査員にとっては、飲食店で接触するというやり方が、あまりに無警戒に思えて信じられなかったようだ。サベリエフと社員が居酒屋を出て、駅まで並んで歩いているのには正直面食らった。

焼き鳥とビール
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サベリエフは、当初、インターネットで入手できる公開情報を求める程度だった。社員が警戒しないレベルの情報から始め、徐々に要求をつり上げた。これは、スパイの常套手段と言って良い。やがて、半導体やその製造工程が分かる資料まで要求するようになった。社員は、会社から貸与されたノートパソコンを社外に無断で持ち出し、パソコンに保存された技術情報を、「コンパクトフラッシュカード」にコピーして手渡していた。

警視庁は2005年9月、社員に任意同行を求めて事情聴取を始め、事実が明らかになった。社員は「コンサルタントの仕事には必要ないと思われる資料を求められ、途中からおかしいとは思っていたが、飲み代欲しさに断れなかった」と供述していた。謝礼の現金は封筒に入れて手渡されていた。

サベリエフは、「社内ネットワークへのアクセス方法を教えてほしい」とも要求していた。ネットワークにアクセスして様々な情報を入手しようとしていたのだろう。むしろ、こちらの方が深刻な脅威とも言える。

ロシアの情報機関員は各国で諜報活動をしている

警視庁は10月、解雇された元社員とサベリエフを東京地検に書類送検した。2人が東芝子会社に損害を与えた「背任」というのが、直接の容疑だった。サベリエフは書類送検される前の6月に帰国していた。

――逃げてしまったのか。

現行犯逮捕できれば良いが、なかなか難しい。東京地検は06年2月、2人を起訴猶予処分とした。「会社に与えた損害が小さい」というのが理由だったようだ。実際はともかく、会社側も「大ごとにしたくない。そのために、流出した技術は、あまり重要ではない、ということにしよう」という思いがあっただろう。

ソ連邦崩壊後も、ロシアの情報機関員は外交官等を装って各国で諜報ちょうほう活動を繰り広げている。ロシアが日本の政治軍事動向だけでなく、日本の先端科学技術にも強い関心を示していたことが分かる。

企業は、外国からの工作への警戒心を怠ってはならない。外国人と接触する際の報告手順を作るといった対策が必要だ。今回の事件では、社員が社内情報を「コンパクトフラッシュカード」にダウンロードできてしまったことも問題だった。