では、「脱原発」の決定に対して、「原発推進派」だった人々の反応はどうだろうか。脱原発後、反対派の動きもまた活発となると思いきや、「100%原発回帰はない」という意見で一致していた。

経済技術省のヨッヘン・ホーマン事務次官。

「我々の立場は理解していただいていないが、決定に従うしかありません」(原子力の広報に長年従事してきたドイツ原子力産業会議のマルク・ルッツコウ広報部長)。

「脱原発は政治のトップダウンで決まりました。従います」(ドイツの経団連、ドイツ産業連盟〈BDI〉の幹部)。

官界、政界の要人も同様の反応で、「ほぼ全政党が一致して、決断したこと。その決定に従うのは当然です」(連邦経済技術省のヨッヘン・ホーマン事務次官)。

「脱原発の議論が、激しく世論を二分したのは事実ですが、一度決まったことに従うのは当然です。私は右派のCDU(もともと原発推進派)の議員ですが、我々の党は4年前から、原子力発電所を新しく建設しないと決めていました」(連邦環境・自然保護・原子力安全省のウルズラ・ハイネン-エッサー政務次官)。

日本のように反対派と推進派が脱原発について激しく意見を対立させ、その後も負けたほうが反対活動を続けることを想定していたので、拍子抜けの感じさえした。それどころか、一部の平和運動・自然保護団体には、22年までの脱原発ではまだ不十分だという声もある。

「原発使用後に出る“核のゴミ”の問題が残っています。原発はトイレのないマンションのようなもので、使用済み核燃料の保管場所は、依然として大きな問題です。廃止を前倒しすることは可能です」(ボン反原子力の会、スヴェン・ブリーガー氏)

では、脱原発にいたる歴史的な経緯はどうなのだろうか。連邦外務省のステファン・バントル課長が説明してくれた。

「脱原発の動きは、昔からありました。今回の決定は、突然決まったのではなく、10年以上前から決まっていたことです」

ドイツでは、1960年代から75年頃にかけて、核エネルギーへの反対運動が強くあった。しかしながら、ドイツが核エネルギーの恐怖を如実に感じたのは、86年に発生した旧ソ連のチェルノブイリ原発事故だった。チェルノブイリで発生した高濃度の放射能に汚染された物質が、1000キロ以上離れたドイツにまで到達したのだ。「ホットスポットとなった南ドイツでは、大変な影響を受けました」(バントル氏)。

福島の原発事故でも話題を呼んだ「ホットスポット」が25年前のドイツでも確認されていたのだ。ドイツ人は伝統的に森を愛する国民で、ホットスポットが見つかった南ドイツでは、キノコや猪などの捕獲が禁止された。それだけでなく、今回の福島のケースのように、南ドイツの住民に対してセシウムに注意すべきとか、幼児に水道水をそのまま与えては駄目だなどと1年以上、「注意点」が報道された経緯がある。

このように、チェルノブイリの恐怖だけでなく、経済的な損失と“心の痛み”が長年にわたりドイツ国民の“原発アレルギー”を増幅させたのは、間違いない。