96年12月2日のSACO最終報告では、「普天間飛行場の全面返還を含む沖縄県内の米軍11施設、5002ヘクタールの返還」が日米間で合意された。合意文書の署名人欄には、池田行彦外相(当時。以下同)、久間章生防衛庁長官、モンデール駐日大使、そして、3年後にベクテル社主催の夕食会で上原氏ら沖縄県議団の前に登場することになるペリー国防長官の名が連ねられている。
SACO合意後、名護市辺野古が普天間飛行場の移設先にされてしまったのは、返還条件の一つとして付記された「今後5~7年以内に、十分な代替施設が完成し運用可能になった後」という文言で「代替地」探しが課題となった自民党政権が、県民の意思を無視する形で辺野古を候補地として差し出したからだ。ただし前述のように、それが日本の政治家や官僚を巻き込んだ米側の巧妙な仕掛けだったとしたら、暴行事件で被害を受けた少女は二重の意味で犠牲にされたことになる。ちなみに、SACO発足から稲嶺恵一沖縄県知事(当時)が辺野古沿岸域を選定した99年11月までの間に防衛庁長官を務めたのは、衛藤征士郎、臼井日出男、久間、額賀福志郎、野呂田芳成、瓦力の6氏である。
「2009米会計年度航空機配備計画」には、米海兵隊が垂直離着陸機オスプレイ(オスプリ)を12年10月から普天間飛行場に配備する計画が盛り込まれた。ヘリコプター同様の垂直離着陸が可能で、航続距離も長く、しかも高速。ただし“未亡人製造機”と蔑称されるほど事故が多いことでも知られる。普天間だけでなく辺野古の計画施設への配備も囁かれたため、代替地候補に辺野古が挙げられた99年、このオスプレイ配備計画の存在が国民に知られることを恐れた防衛方は、あろうことか米軍に配備計画の隠蔽を求める。
前出の真喜志氏は、SACOそのものへの不信と基地が置かれることの危険性を強調する。
「SACO合意というのは結局、オスプリ配備などで辺野古に新しい海上航空基地をつくることが目的なのです。つまり、SACOの本質は移設ではなく基地の新設です。私は、県外移設でもグアム移設でもなく、米国本土に帰ってくれと言いたい。米軍がいれば安心というのは逆で、戦争ではそこが叩かれます。基地が居座る危険性を知るべきです」