香港と母の実家がある福島県を行き来した少年時代

「僕はもともとラッパーなんです」

秋山の広東名は陳日華。香港人の父と日本人の母の間に生まれ、2007年に「日華」としてメジャーデビュー。日本語、英語、広東語でラップをするスタイルで人気を集めた。

ラッパー日華の代表曲『No.1』はプロ野球選手の登場曲としても使われた

1980年、秋山は香港で生まれた。香港に古くから根を下ろしていた陳一家は金融などを手掛けていた。香港の100万ドルの夜景を作った人たちはみんな知り合いという裕福な家だった。

「香港はアジアの金融の中心。そして、常に変化を続ける刺激的な街でした」

香港で不自由なく育った秋山は10歳で日本にやってきた。父親の手がける事業がうまくいかなくなったのが大きな理由だという。母の実家があった福島県のいわき市に居を移し、日本に来てからは父の貯蓄で暮らした。

父親は日本でのんびりした隠居生活を送っていたようだが、福島の片田舎に少年の気持ちを動かすものはほとんどなかった。夏休みのたびに帰る香港で、インターナショナルスクール時代の友人が教えてくれる最先端の情報に触れるのが楽しみだった。その中で出会ったのがヒップホップだった。

秋山広宣社長
撮影=西田香織
ラッパーとしても活躍したインフォリッチの秋山広宣社長

英語に日本語、広東語を取り入れたラップを操るように

「いわき市内に売ってるお店がないから、常磐線に乗って上野のディスクユニオンまで行ってました。お店でもらえるレジ袋が誇らしくてボロボロになるまで使っていましたね」

通販で買ったターンテーブルでスクラッチの練習をし、やがてマイクを持つようになる。最初は英語が中心だったが、15歳の頃には日本語、広東語を取り入れたラップを操るようになった。

「父が日本語が話せなかったので、家の中では英語、日本語、広東語が飛び交っていました。陳一家は香港でゲームセンターを運営したり、ビリヤード文化を香港で流行らせたりと幅広くエンタメにも関わっていました。僕が音楽に興味を引かれたのも無関係ではないと思います」