被害を受けてこそいないが、私も傷ついている

その映画の上映イベントにも出させてもらい、監督夫人となった女優さんに再会し、2人きりになったとき、監督にどこで指輪をもらったか、なんて話を聞かせてもらった。

素顔の奥さまは少し恥ずかしそうに、でも幸せいっぱいの笑顔で、夫としての彼、監督としての彼に惚れこんでいる姿を、演技ではなくそのまま見せてくれた。被害者となった女性たちと同じくらい、そのときの奥さまの笑顔を思い出すと胸が痛い。

監督よ、私はあなたにひどい目に遭わされたことはなく、嫌な思いをさせられたことは一瞬たりともない。でも、私も傷ついていると伝えたい。

良い思い出しかない。楽しかった記憶しかない。だからこそ私は、今頃になって傷ついているのだ。今このような心境にいるのは、私だけではないはずだ。そして別の監督や俳優に関しても、きっと私みたいな人たちはたくさんいる。

どうか作品はお蔵入りさせないでほしい

とはいえ、彼らの作品すべてを上映中止、発売停止、という措置は賛成できない。これは、自分が表現者の端くれだからというのもあるが。

真摯しんしにその作品に取り組み、頑張ってきたスタッフや共演者としては、何で自分まで巻き添えにされる、まるで連帯責任みたいなことまでされなきゃならないのか、とやるせない憂鬱さに沈み、あるいは持って行き場のない憤怒に燃えているだろう。

ただいい作品を作ろうとした彼ら彼女らの努力や情熱までもが、まるで彼らの罪と罰であるかのように扱われるのは、私も居たたまれない気持ちになる。

不祥事を起こした張本人は、ある程度の社会的制裁は受けているのだ。共演者やスタッフのために、どうか作品は「お蔵入り」させないでほしい。

被害者が見たくない気持ちはわかる。ならば、せめて被害者が出ていない作品に限っては、予定通り発表してもらえないか。でなきゃ、関係者の誰もが救われないではないか。

小さな映画館
写真=iStock.com/LeMusique
※写真はイメージです

被害者の名誉を取り戻す場を与えるべき

「作者と作品は別のもの問題」はさまざまな考え方があり、私も思うところある。ただ、多くの視聴者、観客は、作品は見たいと願っているのではないか。

榊英雄という監督と面識はないが、主演を張った女優さんの作品が上映できなくなったというニュースは、とにかく彼女が第三者から見てお気の毒というのを通り越し、まるで身内みたいに彼女の心身の状況が心配になってしまった。

女優生命を懸けたような熱演だったと聞くし、これからを大いに期待されていい演技だったといわれている。そんな彼女が体当たりで挑んだ主演作を台無しにされただけでなく、「もしや監督と……」みたいな色眼鏡でも見られることになってしまうのだ。

現にこの一連の報道で、あの女優もあのアイドルも彼とそんな関係あったのか、と興味津々の臆測が飛び交っているではないか。

せめて彼女の主演作は上映し、下種げすな好奇心を吹き飛ばす存在感を見せつけてほしい。女優として輝いていればその魅力で上書きできる。

彼女だけに限らず、何も悪いことをしていないのに作品が葬られるだけでなく、ずっと「あの男の」バイアスをかけられてしまうのは、公私ともに死活問題になるではないか。繰り返すが、吹き飛ばすには輝ける存在感や名演技を披露するしかないのでは。