1113〜25年にキエフを統治したウラジーミル2世モノマフは、「全ルスのアルコン(支配者)」という「ギリシャ式」の呼称を好んだ。モノマフの名は、ビザンティン帝国皇帝コンスタンティノス9世モノマコスにつながる系譜に由来する。

ビザンティン帝国は、正教会のトップを務める総主教による戴冠が行われた皇帝を擁し、諸国の王やアルコンの上に立つ存在だった。

だがこの秩序は、東方からの征服者に揺るがされる。まずモンゴル人の侵入を受けたキエフ大公国がいくつもの属国に分割され、さらに1453年にオスマン帝国によってコンスタンティノープルが陥落。栄華を誇ったキエフは荒廃した。ロシアの王たちの上に君臨していたビザンティン帝国の皇帝もいなくなった。

15世紀後半にモンゴル勢が弱体化し始めると、当時は「ロシア」と呼ばれていた旧キエフ大公国の一部が正統性を取り戻そうとした。しかし西部地域では、現在のウクライナ西部の大半がポーランドに併合され、ベラルーシがリトアニアに吸収されるなど、さまざまな脅威にさらされていた。

かつてキエフ大公国の中心地だったウクライナがその名を得たのは、この頃だった。ウクライナと呼ばれるようになった根拠については、主に2つの説がある。

多数の歴史学者とロシア政府が支持する説では、1569年にキエフ大公国の中心地だったキエフがポーランド王国の支配下に入ると、この地域は古代スラブ語で「国境の隣」を意味するウクライナと非公式に呼ばれるようになった。ポーランド側から見れば、平原に接し、タタール人などの半遊牧民がいたためだ。

モスクワを「第3のローマ」にする

その一方、ウクライナの学者と政府は、ウクライナ語の「oukraina」と、古代スラブ語の「okraina」の意味の違いに着目する。どちらも語源は古代スラブ語で「境界」を意味する「kraj」だが、前置詞に重要な違いがある。「ou」は英語の「in」、「o」は「abo ut」や「around」を意味する。

つまりウクライナ語の「oukraina」は「中央に所属する土地」を意味し、キエフ大公国を取り囲む土地、あるいは直接的に従属する土地を指す。こじつけのようだが、ウクライナ人にとってはキエフ大公国の系譜への強い帰属感をもたらす説だ。

一方でロシアは、正教会における自らの位置付けと、ローマ帝国に連なる国家的・政治的な正統性の起源を唱える必要に迫られた。「第2のローマ」であるコンスタンティノープルがイスラム国家のオスマン帝国に征服されたため、モスクワが「第3のローマ」にならなくてはいけない。

ロシアの言い伝えでは「2つのローマが陥落し、第3のローマは興隆する。そして第4のローマはないだろう」とされた。