この視点はロシアの権力構造に有用だった。ロシアの総主教の支援を得て、君主による中央集権的な統治が実現し、モスクワが切望していた正統性も得られた。ロシアの統治者は、ビザンティン帝国皇帝の血を引く人間と結婚し、自分たちが帝国の継承と信じるものを正当化するため、さまざまな神話をつくり出した。

しかし、ちょっとした問題があった。ローマを支配していなければローマ皇帝とは呼ばれないように、ロシア全土を支配していなければロシア皇帝とは呼ばれない。キエフ大公国の文化的・歴史的・宗教的な重要性は、実に大きかった。だが西方の失われた領土を奪還し、一方では東方への拡大を目指すロシアの皇帝たちにとってそれは問題ではなかった。

ロシア帝国は、その文化的記憶から他の東スラブの言語を消し去ろうとした。ウクライナやベラルーシが一度も存在したことがないかのような姿勢を取ったのだ。

ロシア帝国によればウクライナ人は昔からロシア人であり、独自の歴史を持ったことがない。ウクライナ国家主義はロシアの建国神話にとって脅威であり、「全ロシア国民」をつくり出す彼らの試みにとっての脅威だった。

現代に入り、ソビエト連邦初期の理想主義者たちが違う考え方を取る。彼らはウクライナ、ベラルーシとロシアを「ソビエトの理想によって結び付いた別々の国」と考えていた。

しかしその理想主義はすぐに崩れ、ヨシフ・スターリンはウクライナつぶしに躍起になった。1932年から翌年にかけて起きたホロドモール(スターリンの政策が引き起こした人為的な大飢饉)では、何百万人ものウクライナ人が命を落とした。

学校でウクライナ語を教えることが禁止されたり、学校そのものが閉鎖されるなど、ウクライナ文化への弾圧が行われた。

ソ連が確立したい物語

スターリンの後継者となったニキータ・フルシチョフは自身もウクライナ人で、49年までウクライナ共産党の第1書記を務めていた。そのため彼は、ウクライナを徹底的に弾圧するよりも効果的な政策として、ソ連の政治体制により統合しつつ、いくらかの自治権を認めた。その一環として57年には、地域別の国民経済会議が設置された。

「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」は、ソ連の法律と矛盾しない範囲で、またソ連の各組織の指示の下であれば独自に法律を定める権利を得た。キエフはソ連内のごく普通の首都とされ、他のソ連構成国と比べて何ら特別な配慮や特権を与えられることはなかった。東スラブの歴史におけるキエフの特別な位置付けは、ないものとされた。ソ連が確立したい物語に合わなかったからだ。