ロシアのプーチン大統領はどのように最高権力者の地位をつかんだのか。ウクライナ人政治学者のグレンコ・アンドリーさんは「プーチンは諜略機関KGBの一員から大統領になった。監視や恐怖を通して社会をコントロールするKGBの手法が不可欠だった」という――。

※本稿は、グレンコ・アンドリー『プーチン幻想』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

2022年2月27日、モスクワのクルニチェフ国家研究生産宇宙センターの建設現場を視察するプーチン大統領
写真=EPA/時事通信フォト
2022年2月27日、モスクワのクルニチェフ国家研究生産宇宙センターの建設現場を視察するプーチン大統領

プーチンを生み育てたKGB(ソ連国家保安委員会)とは何か

ウクライナ戦争を考えるうえで、そもそもプーチンはどのような経緯で権力を持ち、大統領になったのかを確認したほうがいいだろう。

ご存知のとおり、プーチンはソ連国家保安委員会(いわゆるKGB)の出身である。ソ連においては時期や正式名称はどうであれ、「国家保安」を担当する組織はつねに特別の意味を持っていた。

治安維持や国境警備、諜報活動という表の任務以外に、対外謀略、思想警察、政治的暗殺、人民の抑圧や大量処刑など、全体主義体制における恐怖政治の実行が裏の担当分野であった。

言うまでもなく、恐怖政治の実行は全体主義体制維持に不可欠である。

「国家保安」を担当する組織は、他の各省庁局などと比べれば特別扱いをされており、独自の人事体制を持っていた。その名前や形式は時代とともに変わっており、ソ連初期のチェーカー、スターリン抑圧時代の内務人民委員部(NKVD)、ソ連後期のKGB、ロシア連邦時代のFSB(ロシア連邦保安庁)といった名称である。

「監視や恐怖を通して支配」するKGBの思想

だが、その基本的な考え方や手法は連綿として変わっていない。目的達成のためならいかなる手段でも使い、監視や恐怖を通して社会をコントロールすることである。

スターリン体制においては、対外謀略に加えて国内の大量殺戮を担当していたNKVD(スターリン末期は国家保安省)が絶大な力を持っていた。しかしスターリンの死後、1953年にソ連内部で権力闘争が起こった。

対立構造は国家保安系勢力のトップだったラヴレンチー・ベリヤと共産党主導政治を押していたニキータ・フルシチョフの二人である。両者の闘争でフルシチョフが勝利し、ベリヤは処刑された。そして再編成後にできた国家保安委員会(KGB)は、党の支配下に置かれた。

しかし権力闘争に敗れたとはいえ、KGBは強力な組織として存在し続け、その「監視や恐怖を通しての支配」という思想も変わらなかった。