このままでは選挙に勝てない…プーチンを救ったFSBの“お家芸”

古今東西、権力者の支持率を上げる常套手段とは「敵」を作ることだ。

チェチェンの旗
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プーチンは1999年8月9日に首相に任命されたが、その前々日の7日に、当時、事実上(第一次チェチェン戦争で勝利することによって)独立していたチェチェン・イチケリア共和国の武装集団がロシア連邦の一部であるダゲスタン共和国へ侵攻した。

しかし、それだけでは当時のロシア世論を好戦的にして、指導者の周りに結束させるには不十分だった。なぜなら当時のロシア人の認識では、侵攻した武装集団を追い出して、チェチェン共和国からロシアへの侵入を防ぐだけで十分だったからだ。

当時の世論は大規模な戦争を望まなかった。しかも、武装集団の侵攻は指導者の独断であり、チェチェン・イチケリア共和国大統領のアスラン・マスハドフは侵攻に反対で、武装集団の侵攻を批判した。彼は8月~9月の間に、ロシアに対して戦争の阻止を呼びかけ、ロシア政府に和平交渉を申し込んだ。

だが、FSBがこのような絶好の機会を逃すわけがなかった。

1999年9月前半にロシアの四カ所で民間マンションが爆破され、合計307人が死亡した。ロシア政府はすぐに、チェチェン系テロリストによるテロ攻撃だと発表した。ロシアメディアは一斉にテロに対する恐怖を誘導し、「対テロ」戦争を煽動して世論は集団ヒステリーの状態になった。

「対テロ」戦争を扇動して世論を操作するシンプルな方法

そして、この状態でプーチンが国民をテロリストから守る「強いリーダーシップを発揮できる指導者」としてメディアに映されはじめたのである。

9月30日にロシア軍はチェチェン共和国の国境を越えて、第二次チェチェン戦争は始まった。そして同時に、プーチンの支持率が上がり始めた。この経緯だけでも、民間マンションの爆破がFSBの謀略だったのではないか、という疑いが生じる。

次のエピソードは、その疑いをさらに濃厚にする。

先述の民間マンションの爆破は4カ所で起きた。9月4日はダゲスタン共和国のブイナクスク市、9月8日はモスクワ市、9月13日はモスクワ市、9月16日はヴォルゴドンスク市。それぞれ数十名ずつの死者が出ている。その間に、以下のエピソードが起きている。

まず、9月13日にロシアのドゥーマ(連邦議会下院、ロシアの国会)議長のゲンナジー・セレズニョフはドゥーマ運営会の会議においてこのように発言した。「今日の早朝、ヴォルゴドンスクでマンションが爆破されたという報告を受けた」。しかしその日に爆破されたのは、ヴォルゴドンスクではなく、モスクワのマンションだったのだ。

ヴォルゴドンスクのマンションが爆破されたのは、三日後の16日である。つまり、議長に報告をした人は爆破の前からすでにヴォルゴドンスクでマンションが爆破されるのを知っていたことになる。どう見てもおかしな話だ。