「あなたたちはどちらの味方だった?」

プーチンはそれまでの政治論争でも、こうした戦術や言葉遣いを試したことがあった。

例えば2000年代のチェチェン紛争中には、チェチェン人の歴史が利用された。07年4月のタリンのソ連兵戦没者慰霊碑の撤去をめぐる論争ではエストニア人、08年8月のグルジア戦争中にはグルジア人の戦時中の過去がほじくり返された。

ロシア連邦南部に位置するチェチェン共和国の首都、グロズヌイにピンが刺さった地図
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これもケース・オフィサー流の脅迫の一種といっていい。

いずれの場合も、プーチンはこう言っているも同然だった。

「われわれはあなたたちの汚れた過去を知っている。ソ連の一部だったあいだは黙っていたが、現在のあなた方の行動を見ていると、もう一度話をしなければいけないようだ。第二次世界大戦の記念の年は、この質問を問いかける絶好の機会になる――当時、あなたたちはどちらの味方だった? そして今、どちらの味方に付くつもりだ?」

こうした国家や個人の忠誠と裏切りの物語は、プーチンが談話のなかで好んで取り上げるテーマである。

「戦時中にソ連を裏切ったのは誰か」

プーチンの世界』第5章で説明したとおり、第二次世界大戦中、プーチンの父は内務人民委員部(NKVD)の破壊工作部隊に所属し、レニングラードからナチスの占領地へと送られた。

あるとき、現在のエストニアに入った彼は、敵の協力者を殺し、占領軍にとって有利なものをすべて破壊することを命じられた。いわば特攻作戦だった。

プーチンの父はケガを負ったが、何とか生還して故郷に戻ることができた。父親の体験を語るとき、プーチンは「戦時中にソ連を裏切ったのは誰か」という強い思いを必ず口にした。

そのなかにはエストニア人とウクライナ人が含まれていた。

情状酌量の余地はあるとしても、彼らの行動はプーチンにとって許しがたいものだった。ウクライナについていえば、1930年代のソ連の集団農場化政策や大飢饉ききんの被害によって、モスクワ政府に対する敵意がはぐくまれていったことは確かだった。

ソ連指導者のニキータ・フルシチョフは、当時の苦痛への謝罪の意味も含めて、1954年にクリミアをウクライナに移管した(そのときにはもちろん、ソ連の解体など想定されていなかった)。しかしプーチンにとって、こうした歴史は2013〜14年の自身の物語とはいっさい関係がなかったのである。