偏差値というものは「○○大学のおまえは偏差値60の分際だ」と、自分の位置づけを上から目線で強烈に意識させる。偏差値が全国的に普及すれば、「おれは優秀だ」という勘違いから、政府に楯突く学生はいなくなる、というのだ。

私は中曽根氏の返事に驚き、絶句してしまった。「それは違います」とはっきり言えなかったのは、いま思い返しても残念だ。偏差値を「おまえは東京大学に入るのは無理、△△大学までだ」とふるいにかけ、従わせるための道具に使うのは明らかにおかしい。この結果、「末は博士か大臣か」という出世階段の見通し図が頭に染みこむ。

偏差値で育った世代は「高校時代に学年でトップだった人間が、東大法学部に入って官僚や政治家になったのだから、彼らに任せておけば安心だ」と平気で言うことがある。まさに政府の思う壺だ。ペーパーテストが得意な人間が仕事もできるかといえば、そうでないことは言うまでもない。

偏差値は、人生のある一時期に、あるコンディションのなかで、試験にうまく回答できたという意味でしかない。しかも、試験問題の9割以上は記憶力を試すもので、正解がある。

“考える力”が重要になる

スマホ時代になって、記憶力はほとんど価値がなくなった。いつでもグーグル検索ができるからだ。現代社会は、記憶力で解くことはできない“正解のない問題”にあふれている。たとえば「日本と中国はこの先どのような関係を築いていくべきか」といった問題は、記憶力だけでは答えが出ない。“考える力”が重要になる。だが偏差値では、重要な問題を“考える力”は測れない。人生における偏差値の価値は、きわめて疑わしいのだ。

若手経営者の話を聞いていても、偏差値が無意味であることがよくわかる。いまの起業家は、学歴とは無縁で、「10代はゲームに明け暮れていました」という起業家が多い。確かに、東大に入るより、ゲームのほうが起業に近い。

ゲームの世界は、未来がわからない。この次はどんな展開が待っているか……と思いながら進め、ゲームオーバーになっても何度も挑戦してコツを習得して対処していく。学習指導要領に沿った問題の正解を覚えるのとは違う。未知の状況に対応する感覚は人生そのものに近いし、起業にも近い。

しかし、親は「ゲームばかりやってないで宿題しなさい」と子どもを叱る。私に言わせれば、「宿題よりゲームをやったほうがいい」のだ。実際、私の息子は2人ともゲームに熱中し、学校は途中で退学してしまった。だが、現在、長男はウェブ制作企業やドローンファンドを設立。次男はゲーム開発に欠かせないミドルウェア業界ではよく知られており、若い頃から稼ぐ力も相当なものだった。