「赤い呼び屋」の異名をもつ神彰
最初、神彰(1922~98年)と「呼び屋」についての本を書こうと決めていた。神さんには会ったこともあり、取材もしていた。永島さんには神さんについてコメントをもらうつもりだったのである。
神彰は「呼び屋」界では永島さんと並ぶスターだった。ドン・コサック合唱団、ボリショイ・バレエ団、ボリショイサーカス、レニングラード・フィルハーモニー交響楽団といったソ連の芸術家ばかりを呼んできたことから「赤い呼び屋」という異名があり、政治家もソ連の案件では神さんを頼りにするとされていた。
また、女流作家のスター、有吉佐和子さんと結婚したことも話題だった。だが、呼び屋としての時代は意外と短く、興行に失敗して呼び屋を引退した後は居酒屋チェーンの「北の家族」を始めた。同社は株式を店頭公開するが、その後、人手に渡った。有為転変を絵に描いたような人だった。
永島さんがマスコミにも出ないで、自分の存在を消していたのに対して、神さんは「呼び屋」時代はさかんにマスコミに出ていた。だが、居酒屋チェーンの社長になってからは一転して、マスコミには出なくなっていた。
“日本の興行”を生んだ名だたる呼び屋たち
さて、呼び屋という言葉自体は評論家の大宅壮一がつけたものだ。大宅壮一の頭にあったのはふたりの呼び屋、小谷正一と神彰である。永島達司は大宅壮一にとっては若造の部類だったし、ビートルズ、ローリングストーンズといったロックについてはまったく理解していなかったろう。
小谷は敗戦後、バイオリニストのオイストラフを呼んだ。神はソ連の芸術家を呼んできた。呼び屋のなかでも目立つ存在だったのである。小谷は呼び屋としてだけではなく、作家、井上靖の小説『闘牛』のモデルでもあり、プロ野球のパシフィックリーグを作った男としても知られていた。ホイチョイプロダクションズの馬場康夫氏がもっとも尊敬する男でもある。
わたしは小谷さんにも何度か会ったけれど、紳士でかつ怪人だった。出かける時にはリンカーンコンチネンタルに乗るのだけれど、運転手役の副社長は大柄な人で、スキンヘッドにサングラスである。その人が後部席のドアを開けると華奢な紳士の小谷さんが下りてくる。それだけで、あたりを払うのである。