「書く」ときに求められる多様な脳の使い方

「書く」という言葉の下にまとめられてしまった、さまざまなタスクについてよく考えてみましょう。少し考えるだけで、どれほど互いに異なるか、そしてどれほど異なる注意が必要なのかが明らかになってきます。

たとえば、校正も書くプロセスの一部ですが、執筆とはまったく異なる脳の状態が必要です。原稿の校正には、一歩引いて、冷静な読者の目で文章を眺める批評家の役割が求められます。

誤字脱字を探し、文章がスムーズに流れるようにし、構成をチェックします。文章から意識的に距離をとり、自分の頭ではなく紙に実際に書かれている内容を確認します。自分がいおうとした意図を頭のなかから排除して、何を書いたかを見て取るのが大切です。

もちろん、公平な読者そのものにはなれませんが、論理の穴や、自分には説明する必要がないので説明を省いてしまった部分など、それまでに見えなかったことの多くを見つけるには十分です。

校正
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批評家の役割と著者の役割を切り替えるには、これらふたつのタスクをはっきりと分離する必要があります。これは経験とともに上手になります。

著者としての自分から十分な距離を取らずに原稿を校正した場合、実際の文章ではなく自分の思考しか見えなくなってしまいます。

主張の問題点、不適切に定義された用語、単なるあいまいな文章などを指摘すると、執筆者はだいたい真っ先に自分の意図を説明します。しかし、書き上がった文章の前では自分の説明など何の意味もないと腑に落ちて、ようやく書いた内容に注意を向けるのです。

「執筆」では完璧主義にならない方がいい

いっぽう、批評家としての自分が、著者としての自分を邪魔する場合もあります。

著者の立場になるときは、自分の思考に集中しなければなりません。文章がまだ完全ではないといって批評家がしょっちゅう途中で出しゃばっていたら、何も書けなくなってしまいます。

まず自分の思考を紙に書いてから、紙の上で高める必要があります。難しいアイデアを頭のなかだけで一直線の文章に変えるのは、かなり困難です。

自分のなかの批評家をただちに満足させようとしていたら、ワークフローが完全に止まってしまうでしょう。

どんなときでも完成された出版物のように文章を書く極端な遅筆家を、「完璧主義者」と呼ぶことがあります。プロ意識を賞賛する響きのある言葉ですが、そうではありません。本物のプロフェッショナルは、一度にひとつの作業に集中できるようにするために、しかるべきタイミングまで校正を保留します。

校正には集中が必要とされるのに対し、執筆の言葉を探すには、持続的注意がより必要になってきます。