歩道の存在意義を考えたことがあるか
そもそもでいうなら、歩道は何のためにあるかを考えてみるといい。
歩道というものは洋の東西を問わず「交通弱者を守るため」にある。では、交通弱者とは何か。ただの歩行者からしてもちろん交通弱者だが、それだけじゃない。白い杖の人もいる。ベビーカーもいる、お年寄りもいる、子どももいる、車椅子もいる、要するに「自らは他者を傷つけないが、他者からは傷つけられる存在」。それを交通弱者という。彼らを守らなくてはならない。そのために歩道というものはある。
もちろん自転車というものは交通弱者には入り得ない。スピードが出るし、金属部品だらけで、重い。要するに他者を傷つけることができる。
現実として、自転車にぶつかられて怪我をする(場合によっては死亡する)歩道上の事故が後を絶たない。
こんなものが、堂々と歩道を走っているというのは、一言でいって、交通システムが野蛮であるとしか言いようがないのだ。
まずそこから変えていこう、自転車は歩道じゃない、というのがすべての前提にある。ここを理解することこそが「自転車問題解決」の第一歩なのだ。
どこを走ってもいいと思っている無法自転車
ところが、現実を見ると、自転車側に問題がないわけじゃない。いや「ないわけじゃない」どころか、ありありだ。信号は守らない、一時停止で停まらない、逆走も平気、とまあそういう無法自転車の多いこと。その結果として事故が頻発しているのはご存じの通りだ。
その多くが歩道を走っている。いや、歩道・車道を問わず走っている。要するに何も考えてないのだ。左右問わず走るのと同じで、どこを通ってもいいと思っている。気分は「歩行者と同じ」。その一方で、歩道に上がると「歩行者どけどけ」とばかりにチリチリとベルを鳴らしながら歩道を疾走する自転車もいる。
また、昨今でいうなら、スマホを眺めながら走る自転車の多いこと。事故を起こして怪我をしたり死んだりするのがスマホ自転車本人だけならそれも勝手だ。「かわいそうだが自業自得」で終わりだが、困ってしまうのは、他者を巻き込むことだ。歩道上でこれをやられて被害を受けるのは、一般の歩行者なのだ。