尊徳は怒ると大変恐ろしかった

馬鹿な。そんな簡単な理屈で、村や町起こしができるものか。誰だってそう思うだろう。

そもそも尊徳を登用した小田原藩主の大久保忠真(ただざね)が疑い、そんなこと理想論ではないか、と声を荒らげた。大久保は、分家の領地、下野(しもつけ)国(栃木県)桜町(さくらまち)の復興を尊徳に依頼したのである。資金にいくら入用か、と聞いたら、一銭もいりませんと答えたのである。分家の領地は4000石であったが、荒れ果てて実高は3分の1以下だった。当主は本家に居候(いそうろう)するありさまで、どんな有能な役人を送りこんでも、ままならなかった。

二宮尊徳 にのみや・そんとく●1787~1856。幕末、現在の神奈川県小田原市に生まれた農政家。幼名・金次郎。小田原藩主に取り立てられ、農村の再建に当たる。「報徳」「一所懸命」の思想で600村余の経営を立て直した。(PANA=写真)

大久保の疑義に、尊徳は、荒地を開墾するには荒地の力を、貧乏を救うには貧乏の力をもってする、と答えた。荒地の力とは、耕して米が収穫できたなら、半分を食糧とし半分を来年の種にする。これを毎年繰り返せば、一銭の金も必要ない。荒地が金を生む。

そもそもわが国の田畑は、外国から金を借りてこしらえたのでなく、大昔の人が汗を流して自力で荒地を開拓したもの、たった一人で日本国を開拓したような覚悟であったろう。この覚悟さえあれば何事もできる。「この覚悟、事を成すの大本(おおもと)なり、我が悟道(ごどう)の極意(ごくい)なり」

大久保は、「十カ年任せおき」(口を出さない)の条件で、尊徳に桜町再興をゆだねた。

文政6年、尊徳は一家で桜町に赴任した。まず何をしたか。毎日、村を歩きまわった。夜明けや夜中、雨の日も風の日も休まず歩いた。地理を覚えるためと、悪天の川の様子や水はけ、風当り、樹木の位置、土壌の変化などを調べたのである。尊徳の連日の巡回で、村の風紀がよくなった。バクチをする者が恐れをなし、夜遊びをやめた。バクチが盛んな村だ、ということは貧しい。明日に希望が持てないから、労働意欲がない。怠けるから貧乏である。労せずして稼ぐにはバクチしか無い。

村人の生活を、根本から立て直す。

尊徳が説いたのは、おのおのが自分の経済能力を知ることだった。まず、財産、収入を把握する。分(ぶん)を知る。分相応(ぶんそうおう)の分。そして予算を組む。収入に応じて支出する。現在は当り前だが、江戸の農民は家計簿をつけない。無計画の、その日暮し、一日無事ならもうけもので、明日を考えない。考えても、どうなるものではないからである。

尊徳は大久保から預かった金と米を、村人に無償で貸し出した。条件は働くことだけ。働き者は表彰した。皆の投票で決めるのである。怠け者は罰した。飴(あめ)と鞭(むち)である。尊徳は怒ると大変恐ろしかったらしい。