核兵器の英訳は“nuclearweapons”で、原子力の英訳は“nuclearpower”――まったく同根のはずのこの両者を、いつの間にか日本人は別物と思い込んでいた。
20世紀最大の事件は、米国による日本への2つの原子爆弾投下である。広島にはウラン型、長崎にはプルトニウム型の核爆弾がそれぞれ落とされた。コードネームはおのおの「リトルボーイ」と「ファットマン」。未曾有の破壊力とそれによる惨劇のありさまは、世界中に核兵器の強大な威力を思い知らせた。人類が目撃したその恐怖は戦後、世界の政治と経済に2つの効果をもたらす。一つは「核均衡による緊張と平和」、もう一つは「新エネルギーとしての原子力発電」である。
日米安保条約に基づく米軍駐留の対価として米国の「核の傘」で経済復興に邁進した日本は、原発事故を予測して警鐘を鳴らし続けた学者や情報を知りえた国民の反対を押し切り、政府が原発を導入する。「核の平和利用」という御旗を立て国策として進められた原発は、“絶対に安全な夢のエネルギー”として「世界有数の地震列島日本」に次々と林立した。自民党政権が54基にまで増やし続けた原発を、民主党政権でさらに14基増設しようとしていた矢先の11年3月11日、福島第一原発事故が勃発する。
原発推進を強行するため、経産省と電力会社が巨費を投じて宣伝してきた「安全、低コスト、必須エネルギー」という神話がすべて偽りであったこと、電力会社が原発に固執する理由が巨大な利潤にあったことは、これまで数回にわたり論証してきた。また、原発には巨大事故リスクとは別に「使用済み核燃料」という廃棄物の危険性もある。使用済み核燃料とは、長崎型原発で使用されたプルトニウムを含む高レベルの放射性核廃棄物だ。スリーマイル島とチェルノブイリの事故を通じて、今回のフクシマで起きた原発事故が世界中に放射性物質を撒き散らしていることも、人類はすでに知っている。
そもそも、発電から廃炉に至るすべての工程に危険を孕み、しかも、その安全確保を論理的に完結できない原発は、とても実用化できる“科学技術”とは呼べない。それが巨大技術ともなればなおさらだ。そのため、今回のフクシマ事故を機に国内でも多くの国民があらためて政府に脱原発を求めている。