しかし、私は親ガチャではずれた、なんて思ったこともない。

私はたかが岩井志麻子の分際で、妙なプライドが高い。

不遇や不幸を誰かのせいにするより、自分のせいにしたほうが楽なのだ。

ましてやとっくに成人しておいて、いまだに親のせいにするなんて幼すぎないか、とまで感じてしまう。

念のために書いておくが、成人してもずっと親との葛藤に苦しむ人たちを否定も責めもしない。

ひき逃げされただの通り魔に刺されただの、人間関係がなくて完全にこちらに落ち度もない場合は除き、むやみにかわいそうとか、一方的に被害者扱いされるのは大変な屈辱だ。

私がバカだったからだと、私は自分を責めるほうが救われる。

そう、私は親に限らず誰かのせいにしないほうが救われるという、主義や思想ではなくたぶん性癖なの。

ただ、すべて自己責任で、という考えはまったくない。

本当に被害者としかいいようのない人はいるし、他者の救済が必要な人もたくさんいる。そして、本当にひどい親の下に生まれてきてしまった、と同情せずにはいられない子どもたちもたくさんいる。そこは社会が対応する必要があると思う。

韓国では「ガチャ」ではなく「スプーン」

この概念は、わが国だけでなく、二度目の夫の生まれ育った韓国にも似た言葉と考えがある。

昔から育ちの良さを表す際に、生まれながらに親にくわえさせられているという匙(スプーン)になぞらえ、親が富裕だったり高位だったりする家の子を「金匙」と呼んでいた。

金と銀のスプーン
写真=iStock.com/Yuliia Sihurko
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今では、金の上には財閥子女などのダイヤモンドスプーンが、土の下には糞スプーンがあるそうだ。

元々は欧州の「金持ちの子は銀のスプーンをくわえて生まれてくる」という慣用句にちなんだものだろう。

つまり親ガチャ、洋の東西を問わず昔からあったのね。

確かに、これも洋の東西を問わず、昔はどんな親の下に生まれるかで、ほぼ子どもの人生、将来は決まっていた。今現在も、途上国と呼ばれている国はそのまんまだ。

しかし現在の日本は、貧困層の出でも金持ちになれたり、華麗な経歴はなくても成功者になれたり、というチャンスはいろいろあるし、実際にそうなった人もたくさんいる。

なれない人は努力不足、といっているのではない。これは「社会ガチャ」と呼ぶべきか。

あと自分の中で行われる、「自分ガチャ」も影響しているだろう。あまり深く考えず、まさにガチャ気分でやってしまったことが、良くも悪くも重大な結果を招くことがある。

私も、学歴も美貌も才能も金もなく、それこそ有力な親もおらず、離婚してすべてゼロになって上京してきて、おかげさまでテレビに出させてもらったり本を出してもらったりで小銭には恵まれているが、ひとえに社会ガチャ、自分ガチャで当たったからだ。

良きこと、幸せだといえることは、すべて自分の努力、自分の才能、だなんていえない。それらはみんな、出会ってきた皆さんのおかげです……。と、ここまで書いてきて、私って偽善者か妙な宗教の信者か、一周回って立派な人かとも迷ったが、これらの考えで生きることが、とにかく自分にとって楽だからにすぎない。

親ガチャにはずれたといっている人たちだって、社会ガチャ、自分ガチャすべてにはずれることはないのだ。