社会の共感は、社会全体の小売業ないしは商業に対する見方からも窺える。わが国社会の制度は、モノづくり、それも重長広大産業を軸につくられていることが、今回のシンポでもテーマに上がった。他方、アメリカは、むしろ軽短狭小産業が軸で、小売りに対する共感もそれがベースにありそう。

小売業に対する社会の共感におけるこのギャップは、私には、両国の思想・哲学の違いを反映しているような気がする。

日本ではそもそも、商業が、商品を右から左に転売するだけの水道管のような仕事だというイメージが残っていそう。

「水道管なら、短ければ短いほどいい。なければもっといい」となる。取引費用という概念を持ちだして商業現象を説明する経済学者なら、そう言いそうな気がする。しかしそれでは、わが国で、なぜ商業者や商業従事者が近代化と共に増えるのか、納得のいく説明ができないし、同じ商品を、百貨店、スーパー、コンビニ等、異業態で売り分けられる豊かな現実も視野に入ってこない。

身近な例で考えてみよう。たとえば、会社を起業しマーケティングを始める。それで顧客が見つかる。それをどう理解するか。「マーケティングをしようとしまいと、もともと顧客はいたのだ(実在論)」というのか。それとも、「マーケティングをしなければ、顧客はなかった(反実在論)」というのか。「マーケティングとは何か」「商人とは、いかなる存在か」を考えるとき、どちらの立場に立つのかによってまったく違ったシーンが見える。

前者、実在論の立場では、世に働く商人(マーケター)の意義は、金輪際わからない。商人とは、すでに存在する何かを繋ぐだけの存在。すでに実在する何かを見つけるだけ。すでに実在するものなので、商人がいなくても特に何も変わらない。キモは、商人以前にすでに存在するモノや人にある。その意味で、商人とは、供給者や需要者、すべて配役が揃った舞台に、最後に登場する存在にすぎない。

後者、反実在論の立場とは、いわば当事者の立場。事業を始めるとき、その事業に本当に顧客がいるか、わかる人はいない。探ることで見えてくる。いわば、商人とは、舞台そのものを設(しつら)える最初の登場人物でもある。供給者や需要者を含め市場自体をつくりだす存在、市場創造主になりうる。

アメリカは、プラグマティズムという反実在論を発展させてきたお国柄。その哲学的背景の下、きっと商人の値打ちが鮮やかに見えるのだ。他方、日本人にはそれが見えないのは、実在論になお凝り固まっているのかも。寓話だが、何か真理をついている気も。