「人間としての尊厳を失わせ、心を迷わせる」

ギザでは労働者や職人の墓が六〇〇基以上発見されている。病院もあり、四肢を切断する者も多かった。王家の谷の墓廟を掘削していた労働者たちは、年一〇週の休暇のほか、ビール自家醸造用の大麦の支給を受けられるという特権も得ていた。

大麦
写真=iStock.com/ArthurHidden
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こうしたアルコールとの浅からぬ縁は、労働者たちの墓場にまでもちこまれた。エジプトでは二〇一〇年、ギザのピラミッド建設に雇われた労働者の、四〇〇〇年以上昔の墓が公開された。

日干しレンガでできたこれらの墓では、乾燥した砂漠に十数の遺体が埋まっていた。かたわらには、来世での生活のためにビールやパンを入れた容器が置かれていた。当時のビールは非常に腐りやすかったため、材料や製造法を記した文書まで埋められていた。

アメンホテプ二世の大侍従ケンアメンのフレスコ画(前一六世紀)には、地ビールを製造するようすが描かれている。ことアルコールにかんしては、貴賎の区別はなかったようだ。

建設現場では、ビールやパンが貨幣がわりに使われ、書記が酒・パン・穀物の交換比率を決めていた。クリスティアーヌ・デロッシュ・ノブルクールが書き起こした以下の訓示の手紙によれば、書記たちはかなり恵まれていたようだ。手紙は主人が書記に書き送ったものだ。

「聞くところによると、おまえは筆記の仕事を怠り、快楽に身をまかせているという。酒場から酒場をわたり歩いている。ビールがおまえの人間としての尊厳を失わせ、心を迷わせている。(……)ああ、酒が忌いむべきものであることをわかってくれるとよいのだが。そうすれば甘美な酒を呪い、ビールのことばかり考えず、外国の酒を忘れるであろうに(※1)

その一方で、酒に強い者は大いに尊敬された。

クフ王の治世を記したウェストカー・パピルスには、一一〇歳の男が毎日五〇〇個のパンと牛半頭分をたいらげ、一〇〇本のビールを飲み干していた話が感嘆とともに語られている。

また高級ビールは地位の高い人々のためのものだった。

アビドスにあるファラオ・スコルピオン一世(前三二〇〇年)の墓からは、ワインやビールを入れる壺が多数発見されている。

悪質な醸造家は自分の作ったビールで溺死させられた

かくも“泡立つ”環境では、当然ながらビール醸造家は非常に重要な存在だった。そのことを証するのが、第五王朝(前二四〇〇年)時代のもので、一九六八年にエジプトからユネスコに寄贈された「ビール醸造家」とよばれる彫像だ。

ユネスコのウェブサイトで写真を見ることができる。石灰岩製と思われ、がっしりとした体格に描かれている。いかめしい正面向きの坐像は、ファラオ夫妻や高官の像と通じるものがある。台座に象形文字があり、“ftymhy”という名だったことがわかる。

ただしこの職業に失敗は許されなかった。悪質な醸造家は、自分のつくったビールのなかで溺死刑に処せられた。粗悪な酒を売った者は、死にいたるまでこれを飲まされた。

またカイロのエジプト博物館を訪れる機会があれば、ギザで発見された前二三六〇年頃の「ビールをつくる女性像」も見ておきたい。その恍惚とした表情を眺めていると、ナイル川のほとりでいまも醸造されている古代ビール「ブーザ」を飲みたくなってくる。

神聖な飲み物だったビールは、当初はヘネプトとよばれ、前四世紀のプトレマイオス朝以降はズトスとよばれるようになった。原料は大麦、小麦、ナツメヤシだった。エジプトの文献にはすくなくとも一七種類のビールが記され、「美しく旨い」「天空」「喜びをまくもの」「食事のお供」「豊穣」「発酵」など、シュワシュワとはじけるようなネーミングがなされている(※2)

ビールにはおもに四つの系統があった。zythum(文字どおりは「大麦ワイン」の意。もっとも普及していたライトビール)、dizythum(より強いビール)、carmi(甘いビール)、korma(ジンジャービール)である。

エジプト南部のヌビア人のあいだでは、知らず知らずにビールが病気の治療に役立っていた。ミイラの骨の分析でも、ビールの原料である穀物から生成される抗生物質、テトラサイクリンが多く検出されている。