なぜ「論破」は周囲を不快な気持ちにさせるのか。東京大学大学院で哲学を研究する山野弘樹さんは「子供に『なぜ宿題をしなかったの?』と問いかける親は、論破的思考にハマっている。これでは子供の行動は変わらず、嫌われてしまうだけだろう。論破より対話を心がけたほうがいい」という――。(第2回/全3回)
攻撃的な言葉は弾丸のよう
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議論を勝ち負けと捉える人は論破的思考に染まっている

「議論は戦争である(Argument is war.)」という有名な比喩があります。これは言語学者ジョージ・レイコフと哲学者マーク・ジョンソンの共著Metaphors We Live By(邦題:『レトリックと人生』)の中で紹介されている比喩です。例えば、私たちは「言い争いに勝つ」、「相手の議論の弱点を攻撃する」といった表現を使います。このように、議論はしばしば「戦争」のように捉えられることが多いです。

「戦争」(ひいては勝ち負け)として議論を捉える思考の習慣、それは「論破的思考」の最たるものであると言えます。相手の議論の穴を一方的に攻撃し、自分の一時的な優位を示そうとする思考パターンが論破的思考です。

これに対して、誰しもに議論の「抜け漏れ」があることを想定し、お互いにその穴を補い合うことで、共に建設的な議論を練り上げていく思考パターンが「対話的思考」です。「どちらが勝者なのか?」という全く本質的ではないことにこだわる論破的思考ではなく、「本質的かつ難解な問題について共に考える」姿勢を重視する対話的思考の方が、「確実な答えが無い」と言われている今の時代にはマッチしているのです。

前回は、最近はやりの論破がいかに議論において非生産的であるかということと、対話的思考を育てる入り口として、相手への応答に疑問文から入ることの重要性をお話ししました。

ですが、こうした言い方をすると、「じゃあ貴方は相手に対して何も言い返さないんですね?」「相手の主張をすべて肯定するのが対話なんですね?」「なんでもかんでも疑問文で返せばいいんですね?」という誤解をする人たちが一定数出てしまうようです。そこで本稿では、こうした誤解を解きつつ、対話的思考の実践として「問い」を提示する際の注意点と、それに付随する好感度の重要性について解説していきたいと思います。