ある一定以上の「犠牲」はもう払えない
それでも、感染者数が増えれば、手を洗ってマスクをするくらいはしてあげる。公共機関の入り口で体温測定も、続けていいんじゃない? ワクチンも学校で義務的に打たせよう。デルタ株のリスクを見ると、今より低年齢から打たせるのも、そのうち正当化できそうだ。毎年打つことになるって? まあ仕方ない。
でも、みんながそれ以上の犠牲を払うことはないだろう。少なくとも、何週間にもわたる長期に、生活が一変するような犠牲を(少なくともお願いベースで)強いるのは無理だ。
コロナの初期の頃、ウィズコロナというのは何か、社会経済的な制約をずっと抱えつつ生きるような話だとみんな思っていた。コロナに日々怯え、みんなが日常的に死を思いつつ暮らすような世界だと思っていた。あるいは、文明そのもののあり方を見直そう、なんて神妙なことをみんなが思うのでは、などという反文明知識人たちもウンカのように湧いて出た。
でもおそらく、実際はちがう。人は何にでも慣れる動物だ。いつも病気や死のことばかり考えてはいられないのだ。コロナは、なってしまったら仕方ない。運が悪かった。他の多くの病気と同じように、そういうものになるはずだ。ポストコロナ/ウィズコロナの世界で、人びとはいまより少し冷酷になるだろう——少なくともその病気そのものについては。そして、かつてとほとんど変わらない生活に戻るだろう。でも、ぼくはそれが本当に健全な生き方だと思っている。
次のパンデミックでは、人類は違うバランスを検討するはずだ
そして、次にコロナ以外で何かパンデミックが生まれてきたら——そのときにはどうなるだろうか。まず今回よりは、早期の封じ込めに全力を挙げるだろう。世界のあらゆる国が、こんな事態の再演は避けたいのはまちがいない。そのために非常時の私権制限や戒厳令もどきの法制化までやるかは、その国の覚悟次第だ。予防や各種研究への予算も、ずっと積まれるようになるだろう。医療体制も、それまでに見直しがあって、非常時対応の拡充があると信じたい。
が、それでも広まってしまったら?
こういう言い方をしようか。もし次回、こういうことがあったら、そのときはおそらく、その病気そのものによる被害と、その対策の費用との間で、もっとちがうバランスが検討されるはずだ。そしてそのバランスが今回のコロナと比べて、どっちに偏るものになるだろうか。ポストコロナの、少し冷酷になった人類が取る選択肢は——ぼくは明らかだと思う。