学校教育の中でバカでいるのは大きなリスク

あらためて、現代の学校教育が変異的思考と適応的思考に基づいているかを考えてみよう。まず変異的思考の教育に関しては絶望的な状況だろう。「はい、今からバカになりましょう」なんて授業は聞いたことがない。カリキュラムは前例がある問題しか教えず、評価軸も一律だ。そのため生徒は極度に平均化され、偏った秀才性が要求され、前例のないことに挑戦する変異的思考は評価されない。学校に狂人なんて論外というわけだ。

人と違えば白い目で見られ、その違いが原因でいじめに遭ったりする。その不自然さゆえに、子どもたちは思考の自然状態を求めて暴れるのかもしれない。もちろん、暴れた子どもたちは、教育の仕組みから排除されてしまうのだ。本来、誰もが持っている創造性を、偏った教育が奪っていることに社会は気づいていない。

こうして子どもたちの狂人性、すなわち未知へ挑戦しようという創造性の牙は、学年を重ねるごとに鈍っていく。この仕組みのなかで、バカでいるのは大きなリスクだからだ。また、こうした状況を見れば、適応側の思考も教えられているようには思えない。

本当に国語・算数・理科・社会は、世界を捉えるフレームワークだろうか。これを覚えて何になるんだろう、とすら思われてしまっている。そんな試験範囲にだけ強い秀才になるよう型にはめられていくのだ。十数年の「学校研修」を終え、めでたく一流の会社に入る。そしてエスカレーターを上った先で突然、命令が下される。

「これまでにない商品企画を提案してくれ」
「斬新な発想で新規事業を構想してほしい」
「新規性ある研究テーマを考えてください」

彼らが茫然自失するのも無理はない。そんなことは今まで一度たりとも求められなかったからだ。まったく新しいことを臆せず考える変異性も、状況を分析し方針を導く本質的な意味での適応性も、評価軸になかったのだから。

2020年に学習指導要領が改訂され、「生きる力」を養うために、学びに向かう人間性と、思考力・判断力・表現力や、社会で実際に役立つ技能を身につけるべき、という内容が追加されたらしい。ここには少し希望を感じた。逆に言えば、今までこうした教育本来の目的に立ち返ってカリキュラムが制定されていなかったのも不思議だが、そうした教育をどのように実現するのかはまだ語られていない。

創造性を実現する「変異と適応の両立」という私の仮説が正しいなら、子どもたちが創造的な知性を獲得するために必要な教育の方法を、1から考えるための軸線を与えられるかもしれない。

必要なのは努力より好奇心や探究心

では、狂人性=変異の思考のように、固定観念を外してバカのように考えるにはどうすればいいか。なにか、コツがあるのか。また、前例のない行動には勇気や無謀さが欠かせない。そんな行動への心理的障壁や恐れを乗り越え、常識の壁を突破する考え方を手に入れるには、どうしたらいいか。これは現在の教育が提供していない探求となる。

そして物事の本質を捉える力を身につける本質的な意味での秀才性=適応の思考は、どうすれば獲得できるのだろう。世の中の不思議を解き明かしていく思考力と言い換えてもいい。

未知の出来事に向かい合って、その周囲にある関係性を読み解く力だ。この力を考えるには、努力という言葉よりも、好奇心や探究心という言葉のほうがよく似合う。これについても、ずいぶん現在の学習とはかけ離れてしまっている。

好奇心を持った人にとって、知るための努力は苦行を意味しない。むしろ没頭して楽しむ人のほうが状況を深く理解し、成果をあげることを、私たちは経験的に知っている。しかし現在の教育は、好奇心を持って適応的な関係を読み解く方法を教えているのか。首をかしげざるをえない。

創造性は教育の本質的な目標にもかかわらず、やはり私たちは、創造性を高めるためにどんな教育をすればいいのかを、ほとんど何も知らないのかもしれない。むしろ教育と創造性のあいだには深い溝がある。

ヒトの創造も自然現象であるはずだ。であるならば、本当に創造的な教育を実現するには、創造に近い構造をもつ自然現象の理解から始めて、その性質から創造性の構造を理解し、それに則って必要な教育の構成自体を再構築するのが本筋のように思えてくる。

あらためて創造性の正体を探求するために、自然のなかにある知的構造に目を向けてみよう。生物科学的な観点で脳のなかに宿る創造的な知性や、種が生き残るための知的な習性をひもといてみると、そこにはバカと秀才の構造との興味深い一致が見られた。