若い表現者はSNSができないと食っていけない

村上春樹の世代は、これらの仕事の多くは出版社や広告代理店が引き受けてくれていた。

だが、若い世代の表現者たちはみな、自分たちこそが「ソーシャルなメディア」としてふるまわなければならない時代に生きている。それができない表現者には、そもそもお呼びの声がかからない。プロとして食っていけない。やっていけない。

自分の心身がいかに「取り入れたもの」に対して敏感に反応するかは、プロの表現者であれば、だれもが痛感することだ(それに鈍感であるものはプロとしてやっていけない)。だからこそ、村上春樹は自分の作家性や創作性――平たく言えば《才能》――に著しく影響するかもしれない「まずいもの」をうかつに目や耳に入れたくないのだろう。もちろん、これは表現者にかぎったことではない。すべての人が、その身体に入れるあらゆるものによってつねに反応し変化している。その反応や変化に自分自身が気づいているかどうかだ。

先述したとおり、私たち世代の表現者は村上のように、SNS時代の到来前に確固たるポジションを築いた人物とは違い、この場所で生きていかなければならない。汚い泥水を啜って美しい花を咲かせる蓮の花があるように、ここだからこそ村上のような大作家には生み出せないなにかがあると信じてやっていくほかない。

夏の池に咲く蓮
写真=iStock.com/Creative life, looking for special pictures.
※写真はイメージです

デジタル・ネイティブはドブ川で育った魚だ

また、私を含めた30代より下の世代はデジタル・ネイティブといわれる。

デジタル・ネイティブなどと称すれば聞こえはよいが、語弊を恐れず言えば、ドブ川で育った魚である。

生まれたその瞬間から「まずいもの」に浸されていたからこそ、このような汚水の環境でも平然と生きていけている。村上春樹のような中高年の作家たちが、あえてSNSをはじめるようなことはしないでもよい。なぜなら、彼らは必ずしもこの汚染された水質に耐えられるとは限らないからだ。

「悪いものを身体に入れたら、悪い反応が起きる」というが、中高年層の表現者たちにとって、現代のSNSは「悪いもの」どころの問題ではない。SNSをはじめたせいで狂ってしまった人びとは数知れない。

たとえば、書店ではその人の作品など見かけないものの、しかしSNSでの(悪い意味での)知名度は抜群――などという人は枚挙に暇がない。創作活動では久しく得られなかった大衆からの賞賛や共感にたちまち陶酔してしまい、もはや本業そっちのけで「社会正義戦士」として没頭してしまうようなことも、この泥川では日常茶飯事だ。