震災時、県民の情報源だったラジオを舞台化

新しい舞台を考えようとしたときに、思い浮かんだのがラジオでした。

この大震災の時、テレビでは津波の映像が流れていたのですが、奇妙に福島の映像は、あまり観ていませんでした。あとでわかったのですが、福島第一原発が危険な状態にあるという情報をすでにマスコミは知っていて、福島県内から撤退していたようです。私たち、県民の情報源は地元のラジオだったのです。

ラジオ福島は、社員が会社に泊まり込んで、コマーシャルなしで350時間以上、ノンストップで放送し続けました。また、安否確認や生活情報、県民の疑問や質問などもリアルタイムで放送していたので、本当に全県民がもっとも頼りにしたのです。このことがあって、メディアとしてのラジオの存在の大きさを改めて実感しました。芝居を創るなら、ラジオを題材としたものを創ろうと思ったのです。

テレビでは日を重ねるごとに、福島の状況を伝える報道が減っていきました。もとより福島の人に寄り添い、その声に耳を傾けてくれる報道は、当時からほとんどありませんでした。県外の劇団仲間に会えば「いま、福島はどうなっているの?」と聞かれます。このまま声を埋もれさせてはいけない。福島の今を伝える「フクシマ発」を創りました。

創立20周年記念祝賀会にて。劇団員は澤田さん一人で、フクシマ発の上演を開始した年
写真=筆者提供
創立20周年記念祝賀会にて。澤田さん一人で、フクシマ発の上演を開始した年

「福島のことを体が動く限り伝えて」

90回以上の公演のなかで、印象的だったことを紹介します。

北海道の札幌で公演した時、千葉県から避難してきた若い家族が観に来てくれていたのですが、若い父親が「私たちは、千葉県に住んでいたのですが、原発事故による放射線被曝が不安で、子どもが二人ともまだ小さいので、家族で北海道に避難してきました。周りの人たちからは、過剰反応じゃないかと言われたのですが、どう思いますか?」と聞かれたのです。私は「もちろん賛成です」と言いました。この家族は、きっといろいろ放射線のことを調べて、家族みんなで決めたことでしょう。

今度の原発事故で、避難する人と避難しない人が対立するということが起こりました。私は、どちらも正解だと思っています。避難する人には避難する理由があり、避難しない人には避難しない理由があるのです。どちらか一方が正義で、どちらか一方が悪だなんてことは誰にも決められないのです。

また、福岡県で公演したときに、杖をついて足が不自由な90歳くらいのおばあさんが、観に来てくれました。公演のあと、その人からお手紙をもらいました。この人は、長崎の原爆で被曝をした人でした。「私は長崎で被爆をし、その体験を若い人達に伝え、二度と戦争も原爆も使っていけないと語り部の活動を続けてきたのですが、私は体が動く限り語り部をするつもりです。あなたは、私よりはずいぶん若いので、福島のことを体が動く限り、全国で語り部として活動してください」というお手紙でした。この手紙には、勇気づけられました。たとえ、他の人から何を言われてもかまわない。この被爆者からの言葉は、その後の私の生きる道となったのです。