今夏まで実業団の西鉄に所属していた福田穣がアフリカ拠点の「世界最強マラソンチーム」に日本人として初めて加入した。これまで駅伝にも注力していたこともあり、知名度はさほど高くないが、近年のレースでは好記録を連発。安定収入を捨てプロになる決心をした経緯をスポーツライターの酒井政人氏が聞いた——。
スタート直後、力走する福田穣(右、西鉄・当時)=2019年12月1日、福岡市内[代表撮影]
写真=時事通信フォト
スタート直後、力走する福田穣(右、西鉄・当時)=2019年12月1日、福岡市内[代表撮影]

アフリカ拠点「世界最強チーム」と契約した妻子持ちの30歳ランナー

2020年12月31日に30歳を迎えるマラソンランナーの福田穣はコロナ禍の今夏、大きな決断を下した。所属していた西鉄を退社して、「プロ」になったのだ。

やらなかったことを後悔するか。それとも、やったことを後悔するのか。社会心理学者のトーマス・ギロビッチは、人が後悔する約75%は「やらなかったことに対する後悔」だという。福田自身も「チャンスがあるのに、なぜ自分はつかみにいかなかったのか。あとで絶対に後悔すると思ったんです」と話している。

しかし、福田は妻子を持つ身。哲学者のフランシス・ベーコンは、「妻子がいると、運命の女神に人質をとられているようなものだ」という言葉を残している。日本の実業団チームに所属していれば、競技を引退後も会社に残ることができるが、福田はあえて別の道を選んだ。

一家の大黒柱として、福田は「マラソンランナー」という職業での勝算をどのように考えているのだろうか。本人にコンタクトを取ると、福田は電話で熱く語ってくれた。

なぜ安定収入の実業団を辞めてプロになるのか?

福田は福岡県で生まれ熊本県玉名市で育った。大牟田高(福岡県)で全国高校駅伝(2度)、国士大では箱根駅伝(1度)に出場しているが、チーム内でもエースと呼べる存在ではなかった。実業団選手になった後も日本トップクラスの成績を残していたわけではない。

しかし、2017年8月の北海道マラソンが転機になった。同世代ナンバーワンといえる村澤明伸(日清食品グループ)と23秒差の3位に入ったことで福田の“本気スイッチ”が入ったのだ。26歳の時だった。

「北海道の前にマラソン練習を見直して、レース4カ月前から月間1000kmを走り込みました。その結果、大きな大会で初めて表彰台に立つことができました。もっと打ち込んでやれば日本代表になれるんじゃないのか、という気持ちになったんです」

そして2018年7月のゴールドコーストマラソンで2時間9分52秒の自己ベストをマーク。2019年9月のマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)にも出場(22位)した。2019年12月の福岡国際マラソンと2020年2月の別府大分毎日マラソンでも2時間10分台で走破している。マラソンだけでなく、福田はチームの主力選手として実業団駅伝にも出場した。

「僕自身、駅伝が嫌いというのはないんです。でも、現実問題として10月のシカゴや11月のニューヨークシティなどの海外マラソンは、ニューイヤー駅伝(全日本実業団駅伝)の予選会があるので出場しにくい。実業団選手として、駅伝は外すことができないですからね」

マラソンで結果が出るようになり、福田のなかでは世界各地のメジャーレースを転戦したい気持ちが芽生えていた。

「西鉄にいれば生活は保障されます。でも、競技を終えたときに後悔するんじゃないのかなと思ったんです。実業団選手は会社員なので、何かするときには、会社に許可をもらわないといけません。海外レースもそうですけど、ケニアで練習してみたい気持ちもありました。他にもイベントの参加など、自由にできないというところにもどかしさを感じていたんです。それならばプロになって、自由に活動できるようにしたい。引退後は指導者になるという目標もあります。引き出しをたくさん増やして、自分が指導者になったときに、経験談として伝えられたらいいなと思ったんです」