ほとんどの被害者は何ら抵抗もしないまま力尽きる

日本国憲法には国民の義務として、「親が子に教育を受けさせる義務」が明記されているが、それは原則義務教育の範囲だけであり、それを超えた親による教育虐待は、「子供の同意を得ていない」「子供の意思を一切無視している」という事実で、全く正当化される要素は無いのである。

この点は、過去そして現在も教育虐待を受けている当事者が、胸を張って主張してよい反論であり正論である。結果としていかに利益を享受していても、当人の意思を無視したそれは、やはり単なる押しつけであり、反発して当然なのである。

私は自発的意思と小さくない行動力によって親による教育虐待に対抗し、その関係性を清算するのに二〇年かかった。しかし、私と同じような行動を取れる被害者は少ないと思う。多分にこれは私の内側に強烈な自立の自我があったためで、むしろ教育虐待の被害者にあって幾分レアともいえる事例だろう。

過去を振り返る時、私の行ったあらゆる両親への抵抗は、少し計画が狂えば即座に頓挫する危険性があった。私が嘘をついたり捏造までして両親に抵抗したのは、私に多少の知恵と「蛮勇」ともいうべき行動力があったからで、ほとんどの被害者は、「毒親」に包摂される教育虐待の犠牲者としてあり続け、何ら抵抗もしないまま力尽きるか、最悪、私よりさらに重い精神的障害を負う羽目になり、そのあとは抵抗する気力すら持ちえない場合も考えられるからである。

プリンターで印刷した文書で絶縁宣言するだけでもいい

現に「毒親」という言葉がこれだけ認知されている状況を見れば、仮に物理的・経済的に「毒親」との関係性を希薄にしても、その被害の実相を加害者(親)に告知して謝罪を求めることはせず、むしろ、「触れないほうがよい」という判断を下して、苦々しい屈辱の思いとともに沈黙している場合が多いのではないか。

私は、そのような被害者の方々に言いたい。それでも抵抗せよ、と。二一世紀になった現在、かつての列強による植民地のほとんどが独立を果たしたように、同意なき一方的な支配や押しつけは、必ず瓦解し、被支配者の解放が実現されている。個人でもこれは同じで、親による支配は、永遠に続くものではない。長い長い夜は続くが、その後、必ず光明は見えると私は信じている。現に私はそれを実践している。

むろん、抵抗には信じられないほど膨大なエネルギーが必要である。日本においては親と「絶縁」する正式な方法は無いが、精神的に離別する方法はいくらでもある。親につけられた名前の改名や、相続放棄宣言、絶縁宣言書の制作は、驚くほど廉価にすることができるし、何ならこのような手続きをしなくても、単にプリンターで印刷した文書でもって親に「絶縁」を突き付けるだけでも事足りる場合もある。