忘れることは根本的解決にはならない

教育虐待の加害者は、必ず自らの行為を正当化する。一方、被害を受けた側は、たとえ加害者がそのことをきれいさっぱり忘れたとしても、一生消えることのない傷として屈辱とともにそれを抱き続けている。被害者はこの傷をできるだけ早期に忘れようとすることで、親からの加虐を希薄化したいと思う。

それが最も簡単な方法だからだ。だがそれは根本的解決ではない。一度受けた精神的な傷は、後年心のアンバランスとなって必ず噴出する。私にパニック障害の再発という結果でそれが噴出したように、いかに虐待の傷を忘れようと努力しても、その傷は消えない。だから、被害者はむしろその傷を忘れようと努力するのではなく、その傷と向き合わなければならない。結果として、傷は完全には消えないものの、その傷の修復は、傷そのものと向き合ったほうが早くできる。私が二〇年かかって出した結論はこれだ。

寝室の窓の傍に立っている疲れた女性
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抵抗の方法は、個別のケースによって様々である。経済的に支配された被害者は、その圧倒的な力関係によって、親に物申すことができないだろう。特に学費や健康保険を親に依存している若者はこのケースに当たり、面と向かっての加虐への抵抗や追及は大変に難しいだろう。

しかしこの経済的支配も、いつしか必ず終わる時が来る。よほど特殊な事例でない限り、親の経済的優位は永遠に続くものではない。子供は経済的に、そして社会的にもいつかは独立する。その時まで、抵抗の炎を秘しておくのも、また戦略としては正しいだろう。

成人するまでにできるのは「幅広い世界観と教養の獲得」

常に損得を考えることだ。巨大な力を持つ加害者に抵抗する機会は、いつの世でも加害者が相対的に弱くなった時だ。もしあなたが思春期に教育虐待の被害に遭ったのなら、その時に抵抗するすべはほとんど無いだろう。親は無思慮にあなたの人生に介入し、まるで主人のようにあなたの人生を支配しようとし、創造主のようにあなたの人生を設計し、そしてその進路を一方的に強制してくる。

だが、抵抗の意志を持ち続ける限り、やがてあなたが成人して以降、機会は必ず訪れるだろう。問題はそれまで、自分の心の中に抵抗の炎を燃やし続けておくゆるぎない意志があるかどうかである。その意志の炎は、幸いなことに維持費を必要としない、最も経済的な灯台だ。抵抗の炎を燃やし続けるのに一番の方法は、幅広い世界観と教養の獲得だ。知識の蓄積としての教養こそが、抵抗の炎を燃やし続けてくれる一助になる。

視野を広げ、様々な事柄への知識を貪欲に吸収し、体験することだ。そうすれば自らが受けた教育虐待の全体像が俯瞰できるようになり、同時にそれがいかに酷い仕打ちであり、抵抗する正当性が立派に存在するかということを再認識させてくれる。