「考えること」とは知識を運用すること

僕は「わからない」という状態は、「そもそも理解の前提となる知識が足りていない」もしくは「思考の目標設定があいまいである」の少なくとも一つを満たしているような状態だと考えています。

ある「わからない物事」があったとして、私たちがそれを理解するということは、非常に難しいことです。これをあえて言葉で説明するのであれば、「その物事についてどのような視点から問われた時にでも、過不足なく答えることができるようになる」ということなのではないかと思います。

ものすごくざっくりと言えば、ある物事について、ミクロな視点から問われても、マクロな視点から問われても、ある程度明瞭かつ簡潔な答えを返すことができれば、それはある程度理解していると言って差し支えないのではないかと思います。上記した例でいうのであれば、マクロな視点とは「英文の和訳」であり、ミクロな視点とは、「各単語の文中における品詞等々の文法的な役割」にあたります。

ですから、私たちがある「わからない物事」を理解するということには、二段階の理解が含まれているわけです。つまり、その情報の部分的な理解(ミクロな視点からの説明)と包括的な理解(マクロな視点からの説明)の両面が必須となっているわけです。

この二段階の理解を可能とするためには、「わからない対象についての最低限の知識」と「知識の正しい運用」の二点が必要です。そのため、思考を行うということは、「必要な知識を確認する」もしくは「知識を運用する」のどちらか、もしくは両方を行うということになります。

しかしながら、前者について、残念ながら私たちには脳内にない情報(=知らない情報)の検索をすることができません。知らないことは知りようがありませんから、それはもう調べるしかありません。ですから、一般的に「思考」という時には「知識の運用」を指すわけです。

まずは「わかること」と「わからないこと」を整理する

では、どう運用すればいいのでしょうか? まず、この時点で僕らにできることは何があるのかといえば、せいぜい持っている知識と直面している問題の、それぞれについての確認くらいでしょう。

もっと具体的に言えば、自分の手持ちの知識の中で、問題の解決に当てはまりそうな知識を引っ張り出してきて再確認したり、目の前の問題の中でいったい何が問題となっているのかを考えるくらいしか打つ手段はありません。つまり、これは現状の把握と整理でしかありません。

それを踏まえて「考える」の定義をするならば、「対象を腑分けして『わかること』と『わからないこと』に分けること」となります。「自分には何がわかっていて、何がわかっておらず、それをわかるためには何が必要なのか」ということを考えることこそが、「わからないことを考える」という思考の本質なのです。つまるところ、「考える」ということは、結局情報の整理にすぎません。