「全体最適」を育む月曜日の議論
1980年代初め、第二次石油危機による原油価格の高騰と需要の減退で、世界経済は大きく揺れた。化学業界も、その痛撃から免れることはなかった。82年と83年、住友化学は2年連続で無配に陥る。社員の給与はカットされ、株主総会もざわめいた。続いて84年春、構想の立案から10年を越えたシンガポール石油化学コンビナートが、ようやく操業を開始した。だが、業績の回復に、すぐにはつながらない。
当時、総務部で広報担当の課長。40歳を迎える年だった。毎週末、自宅でリポートを書き続ける。組織論に始まり、広報のあり方や環境問題への対応、地震や事故が発生したときの危機管理、地域社会との共存など。所属していた総務部関連の問題が中心だったが、すべてに貫いていたのは、「会社のあるべき姿」への模索。たとえ本社の管理部門ではあっても、会社の立て直しに貢献できることはあるはずだ。そう確信して、鉛筆を手にした。
リポート用紙4、5枚にまとめ、月曜日になると、同僚や部下たちにみせて、意見を聞く。さらに、仕事の後、社内の課長級5~6人で集まって、侃々諤々、論議を重ねた。
昨秋のリーマンショック以降の世界同時不況を「100年に一度の危機」などと表現し、自らの怠慢に口を閉ざしたのは、欧米金融当局の首脳陣だ。バブル的な米国・中国の好況に浮かれて「将来への一手」をさぼり続けた経営者たちも、保身的な弁解を重ねた。常に多様な変動要因を考慮し、「国の経済をどう成長させるか」を考え抜くのが政治家や中央銀行首脳の役割だとすれば、「会社をどうしていけば、最もいい成長軌道を歩めるか」に腐心し続けるのが、経営者たちの責務のはずだ。
では、もし一課長の身であれば、どうか。「課長ごときが、会社の将来を考えても仕方がない」――そう考えるとすれば、誤りだ。どのような地位にいようとも、常に会社全体の最大幸福つまり「全体最適」を考え続けることは、誰にでもできる。
リポートを書くことは、自らの頭の整理にもつながる。くどくどと、長く書く必要はない。短く、簡潔にまとめることは、むしろ難しいけれど、目指すべきものを浮き上がらせることができる。同僚たちと議論を重ねることは、問題意識を共有し、自己の部門だけを優先する「部分最適」の抑制を生む。
当時の同僚が議論を覚えている。廣瀬流は、まず相手の意見を聞く。そして、反対意見を一刀両断にはしない。だから、みんなが安心して言いたいことを言えた。かといって、引っ込み思案というわけではない。論点が整理されると、果敢に「こうあるべきだ」と経営論をぶつ。その内容は、どちらかと言えば過激だ。例えば、取締役の退任後の処遇。当時は子会社の上席役員に天下ることが多かったが、「原則として天下りはさせず、我が社の顧問にして留めるべきだ」と言い切った。
「全体最適」の思考を育てたのは、入社直後の2つの部署での経験だ。67年4月、最初の配属先は、大阪製造所の総務部査業課だった。大阪製造所は、染料や農薬などを手がけていた。仕事は予算の管理。でも、単に計数を注視するだけではない。染料や医薬の事業部門から販売計画を聞き取り、生産計画を考え、予算をつくる。それを生産現場に伝え、進行具合をチェックする。ときに、もっと売れると思えば、技術陣と相談して増産計画を立てる。実は、査業課の「査」は審査の査であり、事業全体に関する管理が任務だった。
69年9月、農薬事業部の営業部業務課へ異動する。この「業務」も査業と同じ意味で、やはり農薬事業全体をウオッチした。ここでの期間を加えた計6年半、常に物事を多角的にみて、何がベストな道かを考え続けることが、身に付いた。その延長に、40代の課長時代に書き続けたリポートがある。