ただ、実際には両者はそう明確に二分できるものでもない。例えば昨今、コロナの影響で行きつけの店に潰れてほしくないと感じた人が、「落ち着いたらまた飲みに行くね」と将来の飲み代を先払いする、といった行為は「交換」とも「贈与」とも言い切れない、両者の汽水域にあるとしか捉えようのないものだ。
後世の人々に対して私たちの「肉と血」を贈与
そして、そうした思いに至って初めて、本書のタイトルの意味が腹に落ちてくる。これをいま読んでいるあなた自身も、その周囲にあるすべてのものも「交換以上の過剰な行為」、つまり「贈与」によって成立しているのだ。「贈与された者」は「贈与されたこと」に対して後ろめたさを覚える。だからこそ、私たちは後世の人々に対して私たちの「肉と血」を贈与して社会の建設に携わらねばならない。
20世紀初頭のスペインの哲学者、オルテガ・イ・ガセットは『大衆の反逆』の中で「すべてを自分たちで成し遂げた」と自惚れる凡百の人を「大衆=慢心した坊ちゃん」と名付けたが、大衆とは「贈与されたことへの後ろめたさ」を感じなくなった人なのである。
本書は読者にこの「被贈与」の感覚をおそらく呼び覚まし、懐かしさと同時に後ろめたさも想起させる。それこそが本書の最大のエッセンスだ。一言で言えば、本書を読むと謙虚になるのである。コロナ後の経済のあり方を考えるうえでも一読を勧めたい。