映画スターだった石原裕次郎が、テレビドラマで人気を得たのは「太陽にほえろ!」だった。だが石原は、ワンクールで出演を取りやめようとしていた。プロデューサーをつとめた岡田晋吉氏は「石原の心を動かしたのは、竜雷太の説得だった。降板にならなかったのは、ひとえに彼のおかげだ」と回想する——。

※本稿は岡田晋吉『ショーケンと優作、そして裕次郎 「太陽にほえろ!」レジェンドの素顔』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

正月紙面用企画で並んで座る長嶋茂雄(左)と石原裕次郎=1958年12月22日
写真=日刊スポーツ/アフロ
正月紙面用企画で並んで座る長嶋茂雄(左)と石原裕次郎=1958年12月22日

「もう少し待ってほしい」の一点張りだった

石原裕次郎は結核の療養で、国立熱海病院に昭和46(1971)年から長期入院をしていた。そこを退院した直後だったと思うが、とにかく出演依頼をしてみようということになった。東宝の梅浦プロデューサーが石原プロに電話をするところから、出演交渉は始まった。

今思えば、奇跡的とも思える幸運に恵まれ、「テレビというのはこれから映像の世界で非常に有益なものだ」と考えている銭谷功プロデューサーが交渉の窓口になってくれた。

「これはいい話なので、すぐに石原を口説きます」

これは幸先がいい。早速、企画書を渡して、番組の主旨も説明した。ところが、なかなか返事が来ない。電話をしても、相手は「もう少し待ってほしい」の一点張りだった。こちらができることをするしかない。第1話の台本を届ける。退院した直後だったからか、直接本人と交渉できない。こちらは誠心誠意、出演をお願いするしかなかった。