「ただしさ」が崩壊し、「死の恐怖」が身近になった

これまでだれも経験したことがないような混乱により、自分たちが当たり前のように信じていた社会秩序や社会規範——いわば「ただしさ」——の永続性や安定性が、いま急速にむしばまれている。

未曽有のパンデミックによって既存の社会基盤や経済システムに大きな打撃が与えられ、民主主義的な政治的決断は後手にまわっている。なにより現代社会においてほとんどの人が意識することのなかった「死」の恐怖が、いまはすぐ傍らにある。「今日と同じ明日がやってくる保証などない」という不安を感じずに暮らせている人は少ないだろう。

一向に終息のめどが立たない感染拡大と経済危機によって、自分たちが大切にしてきたこの社会のありとあらゆる「ただしさ」が崩れ去っていく有様を、外出を自粛した自宅の窓からただ指をくわえて見ているのは甚だ苦痛がともなう。2020年の1月、「あけましておめでとう」などと新年を祝ったそのわずか数カ月後に、このような世界が訪れていると、いったいだれが予想できただろうか。

これからもずっと、当たり前に存続していくと信じていた「ただしさ」が動揺し、強い不安に駆られた人びとは、必死に「ただしさ」を修繕しようとする。自分の「ただしさ」の崩壊を食い止め、これを保障してくれるなにかを探し求める。目下のところ「ただしさ」の保障を求める人びとの多くに採用されているのが「ただしくないもの(悪)」を探し出してこれをたたき、相対的に自分たちの「ただしさ」を担保するという方法論だ。

どれだけ「悪」を叩いても、安心はできない

人びとはいま「悪」に対して過敏に反応し、攻撃性を高めている。「悪」をみんなで攻撃することによって、自分たちは相対的に「ただしい」ことが確認できる。それで安堵する。自分たちの社会秩序や社会規範がまだこの社会に有効なのだと。政府や自治体の「自粛要請」に従わない人を過剰にバッシングしたり、感染した人や感染が疑われる人の「落ち度」を探して晒しあげ、差別したりする「コロナ自警団」「コロナ八分」は、まさしくいまこの社会から、人びとがよりどころにしていた安心感が急速に失われていることを示唆している。

しかしながら、「悪」をみんなで叩きのめしたところで、ようやく手に入れたはずの「ただしさ」による安心はやはり永続的ではない。またじわじわと指の隙間からこぼれ落ちていき、不安が募ってしまう。結局のところ、いちど「悪」を叩いたらそれで終わりになるのではなく、「自粛」にともなって目減りしていく「相対的な安心感」を補修するために、さらに攻撃性を強めてまた「悪」を探し求めてしまうのだ。

苛烈をきわめる「感染者叩き」や「自粛違反者叩き」は、感染したことを秘匿したり、あるいは感染者の発症以前の行動を正直に報告したりすることを回避するインセンティブを強めてしまう。感染経路の把握をより困難にし、社会的リスクをより大きくしてしまう側面もある。