いかにも日本的な“危機対応”

日本で非常事態といえば、大半は地震や洪水による自然災害だ。阪神・淡路大震災をはじめ東日本大震災、熊本地震、各地を襲った集中豪雨など自然災害は頻繁にこの国に襲ってきた。その都度被災地には自衛隊が出動し、ボランティアが集まってきた。

被災地で懸命に人命救助や支援活動を行う自衛隊やボランティアの姿は、日本で繰り返される当たり前の“危機対応”として人々の意識に静かに定着した。被災者に寄り添い、懸命に救援活動を行う自衛隊の憲法上の位置付けなど誰一人問題にしなかった。

だからというわけではないが、日本的な“危機対応”は法律的には常にあいまいで、なんとなくできるものと誰もが思い込んでいる。そんな雰囲気がそのまま新型コロナ危機にも持ち込まれていた。

PCR検査よりクラスターつぶしを重視する感染拡大防止対策。免疫調査に比重をおくこの方式は「日本方式」といってもいいだろう。自粛要請を比較的従順に受け入れる国民性、健康や保健に配慮する生活習慣など、日本人の特性と相まってこの方式は成り立っている。医療体制の崩壊を防ぐ防波堤でもあった。

PCR検査の数が少ないとの批判もあったが、医者や看護婦、緊急医療が可能な病院の数に病床、人工呼吸器やECMO(エクモ=体外式膜型人工肺)といった高度医療機器にこれを扱う人的資源など、医療資源にはすべからく限界がある。そんな中で、初期段階からこれまで日本方式による感染防止策は有効に機能してきた。

だが、罹患者が増えるに従って保健所の負担が増大し、医療体制が逼迫し、感染経路不明の感染者が圧倒的に多くなるにつれて、この方式そのものが破綻しかねない状況になりつつあった。

こんな背景の中で小池知事の「ロックダウン」発言が飛び出した。特措法とロックダウンが混同され、緊急事態宣言の発令を世論が要求するようになる。特措法の改正を議論した国会で、宣言の発令は慎重にと要求していた野党の主張は一体何だったのか。

世論の要求の高まりを受け、医師会や専門家、学識経験者が追い打ちをかける。それをメディアが連日、さも当たり前のように報道する。この間、緊急事態宣言が感染拡大阻止にどう役立つのか、だれも説明できない。宣言すれば事態は改善する、ムードだけが盛り上がる。

こうなれば政府も早期発令に動くしかない。かくして緊急事態宣言はあっという間に感染防止の切り札になったのである。