日本の国力はこの20年で著しく衰えてしまった

なぜなら、日本の国力はこの20年で著しく衰えてしまったからです。20年近く外交の現場にいた人間として、それは肌感覚でわかります。日清戦争当時は日本の国力が強かったけれど、清国はいつまでも自国のほうが上だと思い、開戦してしまった。日本は、あの当時の清国の状態に近いと思います。

清国では、イギリスにアヘン戦争で負けたくらいでは改革の必要がわからず、日清戦争に敗北して初めて、何とかしなければいけないという意識が共有されました。その結果として辛亥革命が起こり、清王朝が倒れて中華民国が生まれたわけです。

現在の日本も、いまだ20年前の感覚でいる。日本は今の国力を冷静に判断する必要があります。

明治以降、国民全体の教育の質と収入は右肩上がりになっていましたが、ここにきて初めて、右肩下がりになる時代を迎えています。ジョブ型雇用が増えていますが、1940年に総力戦体制が取られる前は、日本の仕事は基本的にジョブ型でした。終身雇用制は、あの頃にサラリーマンと呼ばれるようになった、ごく一部の総合職だけのものでした。彼らと一般の労働者の収入には、極めて大きな格差がありました。

田沼意次(1719~1788)
田沼意次(1719~1788)(牧之原市史料館所蔵=写真)

日本の歴史を通して学ぶと、わずかな上層部を除いてはジョブ型が中心で、格差も大きいのが常態である、という社会の姿が見えてきます。戦時体制から平成の中期くらいのおよそ60年が、むしろ例外的な時期。新しいイノベーションが起こって産業構造が変わり、失業者がたくさん出てくるであろう今後は、明治維新と文明開化の構造転換によって、武士が大量にリストラされた時代の再来です。

組織のマネジメントに関して人物の名前を挙げれば、柳沢吉保(1659~1714)や田沼意次(1719~1788)が重要でしょう。どちらも評判はよくない人物ですが、戦国の革命家の時代が終わり、確立された江戸幕府の体制と秩序をどう維持していったのかは、現代において着目すべき点です。柳沢吉保は、赤穂浪士を熱狂的に支持する民意に反して、徹底的に処断を下しました。浅野内匠頭に切腹を命じた幕府の仕置きを否定する彼らの行いは、秩序を維持するという観点から受け入れることができなかったからです。

乃木希典(1849~1912)
乃木希典(1849~1912)(AFLO=写真)

田沼意次は、経済を重視しました。緊縮財政をやめ、印旛沼を干拓するなどケインズのような政策をとりました。長く続いた体制の中では、大名や武士も国家官僚だったのです。

人心掌握術では、乃木希典。司馬遼太郎から徹底的に叩かれて凡将の扱いになりましたが、203高地でロシア軍の機関銃の前に1万5000人もの戦死者を出しながら、結果として勝った。それは自分の長男と次男を率先して前線に出し、戦死させたためでした。どれほど勇ましいことを言っても、言葉だけでは人はついてこない。行動で示せば、誰も文句は言いません。