テレビに現を抜かしているのが心配だ
なぜ、妻にここまで浮気されて、彼は離婚どころか怒らないのだろう。まさか、女房の浮気は、自分の芸の肥やしだと思っているわけではないだろう。
もしかすると、師匠の談志がいみじくも定義した、「落語は人間の業の肯定」というのを、わが身で実践しているのかもしれない。
女房の浮気をじっと耐えているのは男にとって不条理である。だが落語には、不条理な噺がいくらでもある。不条理を体験することで、落語がもう一段ステップアップする。そんなバカなとは思うが、落語は理詰めではない。
それとも、冒頭に書いた談志の言葉ではないが、結婚以来、若い妻の奔放すぎる生き方に、苛立ち、怒り、離婚を考えているうちに、本当に気が違ってしまったのか。どちらにしても、志らく夫婦の問題だから、他人がとやかくいうことではない。
だが、落語家として一番大事な時期に、電気紙芝居に現を抜かしている志らくのことが心配だ。
彼が芝居に夢中になっているとき、談志は、「志らくは落語を嘗めている」といったそうだ。志らくは『雨ン中の、らくだ』で、この談志の言葉を聞いて、芝居は道楽、ちゃんと落語と向き合おうと書いている。
談志は、参議院議員になったりした。「しかし談志は魂を政治に売ることはしなかったが、自分は魂を芝居に売りかけていたのです」と自著に書いているではないか。今は電波芸者になって、魂を、視聴率や銭、人気に売り渡しているのではないか。
今回の騒動を機に、落語一筋に打ち込むべき
この本の中で、談志の言葉「修業とは矛盾に耐えること」について触れているところがある。
ある弟子が、「師匠のいうことは絶対でござんすよね。師匠が黒いといったら白でも黒になるんですよね」というと、談志が、「そんな馬鹿なことがあるか。じゃあ、俺がお前のかみさんとヤラせろといったらどうする。駄目だというだろ。ほれみやがれ、師匠は絶対じゃないんだ。ケースバイケースだ」といったという。
だが、志らく一門では、女将さんは絶対で、女将さんがヤラせろというと、弟子は嫌とはいえないようだ。弟子入りする人間に、志らくが、それも修行の一つだ、耐えろと、いい含めているのではないのか。
今回の騒動は、落語をやる上できっとプラスになるはずだ。これからの客は、志らくの人情噺には、作り物ではない実があると思いながら、聴くはずだ。
談志の十八番「芝浜」を志らくが演るときのことを想像してみよう。大晦日の夜、大金の入った財布を拾ったことを、夢だといってなかったことにしてしまったことを、女房が魚屋の亭主に告白し、話し終えた女房が、泣きじゃくりながら、「でも捨てないでおくれ」と亭主に縋りつく場面では、志らくの実人生をそこに重ねて、客は滂沱の涙を流すことだろう。私も泣くだろうな。
今回の騒動を機に、テレビも芝居もやめて、落語一筋に打ち込むべきだと思う。あえて、苦言を呈するのは、立川志らくという才能を惜しむからである。