音楽家の家庭で育ち、本を書かせれば速い
師匠談志は、呆れるほど記憶力のいい人だったが、志らくも負けていない。『男はつらいよ』シリーズを全て覚えていて、何話のマドンナは誰と、即座にいうことができる。 昭和歌謡といわれる懐メロも、すべての歌を諳んじていて、歌うことができる。歌はうまいというレベルではないが。
父親はクラシックのギター弾きで、母親は長唄の師匠という血筋を引いているのだろう、ハーモニカも習い始めてすぐにうまくなり、舞台でもハーモニカの名手・ミッキー亭カーチスと競演するまでになった。
師匠談志は何十冊も本を書いた。志らくも書く。内容はともかく、書くのはすこぶる速い。
談志が若い頃に書いた『現代落語論』(三一書房)は、落語を語るうえで欠かせない“古典”だが、志らくも『落語進化論』(新潮選書)という落語論を出している。もっともこちらはほとんど注目されなかったが。
師匠が太鼓判を押した“狂気”と、よく通る声、背はやや低いが、なかなかの男前でもある。
60人ぐらいを集めて「志らくを聞く会」を催した
私が志らくと会ったのは、だいぶ昔になる。談志師匠の弟さんで『立川企画』の社長だった松岡由雄さんを介してだった。
松岡さんから、志らくに文化人の応援団をつくりたいので、手を貸してくれといわれたのだ。それならと、神楽坂の毘沙門天「善国寺」の裏手にある講堂を借りて、作家の嵐山光三郎さん、坂崎重盛さん、版画家の山本容子さん、毎日新聞の朝比奈豊社長など、60人ぐらいの親しい人に声を掛け、一夜、酒を呑みながら「志らくを聞く会」を催したのである。
最後に「死神」を熱演してくれた。終わって、神楽坂の居酒屋で飲みながら、「志らくはいいね」と嵐山さんや山本さんがいってくれた。
その頃のことを志らくはこう書いている。
「嵐山先生は私をとっても可愛がっていてくれて、そのきっかけは講談社の元名物編集長・元木昌彦さんが、昔の落語家の名人のように志らくの周りに文化人を置こうとしてくれたからでした。それは明治時代に夏目漱石が『三四郎』の中で、三代目柳家小さんについて、『小さんは天才である……彼と時を同じゅうして生きているわれわれは大変な仕合せである』と書いていることに影響されたとも聞いております」(『雨ン中の、らくだ』より)
その後、月に1回、国立演芸場で、嵐山さん、山本さん、さだまさしさん、私などが月替わりで演出する「志らくひとり会」を12回続けた。
演じるたびにうまくなっていく志らくの落語を聞くのが楽しみだった。