石田三成 実務能力は高いが人望がなさすぎた……

「秀吉への忠誠心が素敵……」と歴史好き女子の間で人気の三成ですが、彼が秀でていたのは、計画立案に代表される実務能力でしょう。太閤検地をデザインしたのは三成と言われているし、秀吉の軍の兵站整備も堅実にこなしました。官僚タイプで、自身の能力をわきまえていたのでしょう。自分は戦争がヘタだと理解しているから、配下の家臣たちに武勇の士を多数抱えました。

だけど残念なことに、三成は求心力、そして豊臣政権内部での人望があまりにもなかった。ここは難しいところで、現代で言えば、経営者の決めたことを実行する副社長のような立場なんです。権力者の側にいる人は、どうしたって恨みを買います。特にかわいそうなのは朝鮮出兵で、三成の家来が現地で指示するたび、苦労している武将たちは、「秀吉め!」とは言えないから、三成に怒りの矛先が向かってしまうんですよ。この遺恨が尾を引いて、関ヶ原の戦いで豊臣の譜代大名が家康についてしまったに違いありません。

こういう立場に置かれた人は一歩引いて、おとなしくするのが得策です。だから秀吉の死後、頭を下げていればよかったのに、つい前に出てしまうのが三成の甘いところ。官僚の才能はあっても、政治家としては力不足でした。

伊達政宗 半歩遅れ&日和見は生き残るための最適戦略

当時の東北地方は、江戸から約20年は時代が遅れていました。そこで気勢をあげていた政宗は、申し訳ないけれど、「時流を判断できない田舎者」という印象です。一歩遅れる戦国大名は潰されるなかで、半歩遅れていたおかげで首の皮一枚つながったとも言えます。

政宗は秀吉の北条征伐に遅参したことで、会津領を没収されます。その後、秀吉に呼び出されると、余計な行動に出て立場を悪くし、かつて100万石あった領地は58万石にまで減封されました。さらに関ヶ原の戦いのとき、東軍についたら領地を戻すとお墨付きをもらうのに、「どっちが勝つかな?」と日和見しているんですよ。当然、戦いが終わって、「何もやってねえじゃねえか」と家康に怒られました。戦国大名として活躍している時期は短いし、快勝した戦いの記録も少なくて、かなりダメな武将です。

政宗の頼りない決断力からは、「立場を決めて、ちゃんと実行する」という反面教師的な教訓が得られます。ただ、日和見していれば、とりあえず保身はなんとかなるわけで、生き残りという意味では正しい選択なのかもしれません。晩年、政宗は昔の武勇伝を自慢げに語っていたようです。この処世術では、給料は上がりませんけどね。

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(構成=鈴木 工)