パレード後、「最良の日でした」と涙が流れた

午前10時5分に「結婚の儀」が賢所で行われ、午後3時からは初めて天皇皇后両陛下に挨拶する「朝見の儀」が正殿松の間で行われた。

午後4時45分、宮内庁楽部が演奏する『新祝典行進曲』が流れる中、オープンカーに乗ってパレードに出発した。沿道は20万に近い人で埋め尽くされた。

全てを終わって、ようやく2人が会話をゆっくり交わしたのは午後11時30分を回っていたという。

雅子さんは、疲れた様子も見せず宮内庁関係者たちに、

「今でも沿道から声を掛けてくださった人たちの祝福の言葉が胸に響いています。最良の日でした」

と語ったという。それまで見せなかった涙が、雅子さんの目からそっと流れたそうだ。

ここまでの描写は、ジャーナリスト友納尚子の著書『皇后雅子さま物語』(文春文庫)から引用させてもらった。

雅子さんは29歳だった。この日、雅子さんの本籍地・新潟県村上市役所で、小和田家の戸籍から、雅子さんは除籍された。

1週間後の6月16日、皇族の戸籍にあたる「第百弐拾五代天皇に属する皇族譜」に登録され、徳仁親王妃雅子という欄に、両親の名、誕生日の年月日時、命名の日時などが記されたという(友納の『皇后雅子さま物語』より)。

こうして雅子妃は姓のない存在になったのである。

「皇族には基本的人権は事実上ほぼない」

君塚直隆関東学院大学教授は、朝日新聞(2019年12月6日付)の「耕論」で、皇室になるということはこういうことだといっている。

「日本の皇族は身分や生活は保障されても、特権はほとんど持たない義務ばかりの存在になったと思います。

参政権を持たず、世襲制で職業選択の自由はなく、とはいえ自由に皇室を離脱できるわけでもない。国民は、憲法で基本的人権や職業選択、婚姻などの自由が保障されています。しかし皇族にはそのような基本権は事実上ほぼないと言ってよいでしょう。模範から外れた行動をとれば、『税金で暮らしているのに』とバッシングされます」

外交官の家で育ち、ハーバード大学を卒業後、東大に学士入学して40倍という難関の外交官試験を合格し、外務省に入った雅子さんには、皇太子妃となるということが基本的人権を奪われることだと頭では理解していても、実感はなかっただろう。たとえ想像していたとしても、現実はそれを超え、はるかに過酷だった。

宮内庁や天皇皇后からの、「世継ぎを早く生んでほしい」という強いプレッシャーや、その後の苦しい不妊治療を経て、ようやく愛子さんを授かったにもかかわらず、周囲からは祝福を受けなかったことなどが、雅子さんを精神的に追い詰め、「適応障害」になったことは、よく知られていることだから、ここでは繰り返さない。