洪水対策で大規模な河川工事を行った家康

入府した家康は、江戸を東日本随一の大都市に仕立てるべく、大胆な河川工事を実施します。工事の実施には大きく言って、3つの理由がありました。

1つ目が洪水対策であり、2つ目が豊かな農地を作るための灌漑かんがい工事、3つ目が江戸へ日本中の物資を集めるための物流機能の整備でした。

その結果、利根川の川筋は東へ移して渡良瀬川と合流、銚子に流すことで江戸は太平洋へと直接つながることになります。現在の千葉県佐倉市付近が利根川から太平洋に繋がる物流の街として栄えたのは、この川の付け替えによるものです。

また、渡良瀬川の最下流部分は江戸川と名前を変え、利根川の分流となります。荒川は入間川と繋げられ、上流で隅田川と分岐して江戸湾に流れ込むようになりました。家康による河川改良事業は「利根川の東遷、荒川の西遷」とも呼ばれています。

江戸時代にこれだけ大規模な河川整備を手がけなければならなかったのは、当時の物資運搬の交通体系が、陸路ではなく海路だったからです。

江戸の商業の中心と言えば日本橋ですが、それ以外にも京橋や新橋など、都心に水にちなんだ地名が多いのは、家康が整備した河川を使った水運を中心として経済が発展したためです。

晴海も東雲も、運河として整備された地域だった

東京の河川整備は時代が明治になった以降も続けられました。特に荒川は氾濫が相次いだことから、明治政府は1911年より荒川放水路の整備に取りかかります。

この結果、隅田川流域での洪水被害は減少しましたが、荒川の東岸の低湿地帯では依然として洪水の被害が後を絶ちませんでした。そこで江戸川と荒川の間を流れていた中川の改修に着手。大工事の末に新中川を建設し、東京の河川は現在の姿に至ることとなります。

こうした河川整備の一方で、物流基地として都内には多くの運河が建設されました。船で運ばれてくるたくさんの物資をさばくための河岸が必要となり、街の中に運河が建設されたのです。

現在、都内には約15の運河が残っています。

今、中央区晴海や江東区東雲などと聞くと、林立するタワーマンションをイメージする人が多いかもしれません。しかしこれらも、もとは運河として整備された地域でした。

アメリカ資本のブルーボトルコーヒーの日本第一号店がオープンするなど、近年、江東区の清澄白河が若者を中心に人気を集めていますが、この街にある小名木川も、やはり運河として整備された場所です。なおブルーボトルコーヒーがこの地を選んだのは、静かで道が広く、それでいて清澄庭園や現代美術館があるなど、文化的な場所でもあったから、などと言われています。