自らの逮捕や摘発という「ニュースバリュー」や、民事訴訟における「変なルール」といった、他人が考えたアイディアがあります。これに対して、それぞれ、「小者」や「とりあえずは決められたルールの中で、対処するしかない」と述べています。その理由は、ロジカルに考えた結果にすぎません。
「ロジックって考えるための材料があるんで、勝ち負けじゃなく、誰しもが同じレベルに立てる理論。なのに、世の中ロジックを使わない人が多いんですよ」(*8)と、〈ひろゆき〉は訝しんでいます。
ロジックが通じる“活字”の世界へ
つけ加えると、単なる愉快犯でもありません。2ちゃんねるやニコニコ動画を、「もう少し社会的に価値のある情報を主体に、いろいろな情報が流通している場所をつくりたかった」(*9)と位置づけています。社会的な出来事への関心は、常に高いものがあります。
ですから、たとえば、ネットの流行や、事件、事故、とりわけ、発言等に批判が殺到する「炎上」については、『日刊SPA!』誌上での連載「ネット炎上観察記」を平成20年(2008年)から令和元年=2019年まで11年間にわたって続けました。現在(8月22日時点)では、「僕が親ならこうするね」と題した教育論に変えたものの、連載自体は続けています。
そして、ウェブサービスの考案者であるにもかかわらず、まとまった発言を、ネット上ではなく、活字で展開しています。メインステージは活字です。それはこれまでの引用からも明らかです。実際、現在も「僕が親ならこうするね」と、堀江貴文との対談連載(「帰ってきた! なんかヘンだよね…」『週刊プレイボーイ』)の2本の週刊誌連載を抱えています。
しかも、近年では、『無敵の思考 誰でもトクする人になれるコスパ最強のルール21』(大和書房、2017年)をはじめ、矢継ぎ早に本を出版しています。そして、そのメッセージは、あくまでも活字読者に向けられています。ネット上での自らの発言を、「暇つぶしのネタ」として、「何かちょっとでも自分が絡める話題があれば一言言いたい」人たちの燃料として提供するのではありません。
活字を追いかけてくれているロジックの通じる相手を見ています。「ある程度年齢がいっていないと、文字を読んで面白いと感じない」(*10)からです。
(*8)ひろゆき『僕が2ちゃんねるを捨てた理由 ネットビジネス現実論』扶桑社新書、2009年、223p
(*9)西村博之×前田邦宏「オンラインコミュニティの現在 もうひとつのコミュニケーションチャンネルを探る」『Human Studies』29 電通総研、2002年、9~10p
(*10)ひろゆき『2ちゃんねるはなぜ潰れないのか? 巨大掲示板管理人のインターネット裏入門』扶桑社新書、2007年、160p
平成は「昭和の遺産」を食いつぶした時代
ここで注目するのは、〈ひろゆき〉の活字へのこだわりではありません。それよりも、なぜ、〈ひろゆき〉が、「平成」において、徐々に支持者からすら見放されつつあるのか、という状況に注目したいのです。
その状況を端的にあらわすのが、「昭和の遺産」と「暇つぶし」の違いです。
「昭和の遺産」と「暇つぶし」は、同じく食いつぶす対象です。そうでありながらも、しかし、両者は違います。前者がリジッドで権威的なものであったり、あるいは、レガシーであったりします。これに対して、後者は享楽の対象であったり、レジャーであったりします。こうした点において、両者はキャラクターを異にしています。