情緒のほとんどは機械にはない、死に由来する
情緒のほとんどは、人が一定の時間の後に朽ち果てる、すなわち「死」という宿命を認識していることに由来しています。だからこそ「もののあわれ」とか「無常観」といった人間的に上質な感受性も醸成されるのです。機械であるコンピュータは古くなった部分はいつでも取り換えられます。したがってこういう深い情緒を身につけることはできません。美的感受性についても同じです。
日本には食糧自給率の問題があります。なかには「すべての穀物や肉を輸入したほうが農業のコストもかからず経済的だ」という主張をする人たちもいます。しかし、彼らは目先の経済のことしか考えていません。
農業が放棄され、農地が荒れ果ててしまったら、新幹線から見えるのはぺんぺん草がはえた景色ばかり。旅の車窓が実に味気ないものになってしまうでしょう。日本人の類いまれな美的感受性を支えているのが、美しい自然です。日本人は鋭い美的感受性により文学、芸術、数学、物理学などで著しい世界貢献をなし、社会も進化させ、世界に誇れる一流国をつくり上げてきたのです。
拙著『国家の品格』に書いたように、西暦500年から1500年までに日本一国が産んだ文学は、その10世紀間に全ヨーロッパが産んだ文学を質および量で凌駕しています。このような文化的水準の高さが、今世紀になってからの自然科学分野でのノーベル賞で、アメリカに次ぐ大量の受賞者を産み出したのです。
自分たちは歴史上最低の若者
私はいくつかの著作でも、歴史を学ぶことの大切さを繰り返し書いてきました。前述の食糧自給率の問題にしても、イギリスのチャーチル首相は、食料の補給船が敵に破壊されて食糧備蓄が1週間を切った40年秋が一番怖かったと戦後に語りました。歴史を学んでいれば、食料を自国で生産できないことの弱みは明らかです。農業とは経済だけの問題ではないとわかるのです。
よく若い人たちからは「何を読んでいいかわからない」という質問を受けます。そこで、お茶の水女子大学で教鞭を執っていたとき、20名ほどの学生を対象に読書ゼミを続けました(詳しくは拙書『名著講義』(文春文庫))。『代表的日本人』(内村鑑三)とか『福翁自伝』(福沢諭吉)などを読み、レポートを提出させ、それを私が添削する。そして、授業中はディスカッションを行うのです。
ゼミ生の反応は期待を上回るものでした。彼女たちは、数冊読んだだけでみるみる思考力が高まり深まり、変わっていきました。「自分たちは歴史上もっとも知識があり思慮深い若者」と思っていた学生たちの中から「自分たちは歴史上、知識も情緒も最低の若者」と考える人さえ続出しました。それには「洗脳教育をしているのではないか」と自問したほどです。もちろん、読書習慣も身につき、人間的に成長する素地を持ったことにもなります。ある学生は「書棚に並んだ青帯(哲学思想・言語)の岩波文庫は私の勲章です」と話してくれました。これこそが、まさに読書の効用といっていいでしょう。