研究者は「折り返してから」を走ったことがない
では、企業から大学人がまなぶことはあるのだろうか。
「もうめちゃくちゃありますよ。私たちと武田薬品工業との共同プロジェクトが非常に大きい。そこから本当にまなんできた。僕たち研究者はどちらかというと、マラソンの前半を担当している感じなんです。でも後半、折り返してからの部分を研究者は走ったことがない。化合物をみつけてからどうやって薬にするか。保険適用を目指した治験の準備、世界の競合相手の動向、特許の状況。そういう調査をして、最後の仕上げをするというところは日本の企業はものすごいノウハウをおもちです。ただそこにまでもって行く画期的なアイデアや新しい技術が今は企業では生まれにくくなっていると思う」
大学にはない企業の強みについて、山中は明快に見通している。さらに、企業の現状に対する自身の見方を教えてくれた。
「製薬企業は苦しんでいまして、今までのように新しい薬をつくりあげるのが難しくなっているんです。やり方を変える必要がある、と。何十万という人が同じ薬をつかう時代は終わりを迎えつつあって、今はやはりアルツハイマーならアルツハイマーでも、オーダーメイド医療のような方向が生きていく道じゃないかということで、各製薬企業が生き残りで必死です。だから大手企業も、ベンチャー企業などいろいろなところと手をむすび、もがき苦しんでおられるわけですよね」
「20年後くらいにいただいた方が、気は楽だった」
研究者としての領域を守りつつ、企業とウィンウィンの関係をつくりあげる──。そんな、研究のスタイルを山中は描き出そうとしているのだ。山中が、本庶とはまた違った意味で、広い視野をもった科学者であることがわかる。
大学と企業という二つの領域の架け橋の一つは、間違いなくノーベル賞だった。産学連携に世界的な賞は大きな力を発揮した。
では山中自身は、受賞によってなにを得たのだろうか。
「私はもともと医師ですから、やはり患者さんのために貢献したかった。責任感をより一層感じるようになりました」
達成感より、重圧が強くのしかかってきたようだ。山中は言葉をついで、ほほえんだ。
「できたら今から20年後くらいにいただいた方が、よほど気は楽だったろうな、と思います」
(敬称略)
京都新聞 記者
1982年、大阪生まれ。滋賀医科大学を卒業し、医師免許取得。2009年に京都新聞社へ入社。在学中に7カ月半アジアを放浪した経験が、ジャーナリストを目指すきっかけになった。警察や司法を担当した後、現在は科学や医療、京都や滋賀にある大学の動きを取材している。iPS細胞をテーマにした連載も執筆した。人文学に強い関心をもち、哲学や生命倫理にかんする記事も多く書いている。