「埼玉らしさ」とはアイデンティティ探求の裏返し

1871(明治4)年に埼玉県ができたとき、入間県を含む現在の埼玉県域に住む人々はだいたい90万人ほどで、1883(明治16)年には100万人ほどであった。それから半世紀経過したアジア・太平洋戦争敗戦の1945(昭和20)年には人口200万人を超えた。

その後、高度経済成長期を迎え、埼玉県は巨大都市東京のベッドタウンとして膨大な数のニューカマーを迎える。1965(昭和40年)に300万人となった人口は、1971(昭和46)年に400万人、1977(昭和52)年に500万人、1987(昭和62)年に600万人というペースで増加し続けた。現在では推計人口732万人(2019年2月1日現在)を数える。

このようにみると「翔んで埼玉」が発表された1982(昭和57)年とは、急激に増加した新たな埼玉県人が埼玉県で生活を営みつつあった時代であった。「なにもない」埼玉という決まり文句は、埼玉とは何か、何があるのか、というニューカマーによる「埼玉らしさ」というアイデンティティ探求の裏返しだったともいえるのではないだろうか。

草加松原団地(1966年撮影、埼玉県立文書館収蔵埼玉新聞社撮影報道写真より)

突出してはいないが、そこそこいいものがたくさんある

そうして現在共有されつつある「埼玉らしさ」とは、映画のなかでも言われているような、突出してはいないが、そこそこいいものがたくさんある、というようなものである。一方、埼玉県の地域にはそれぞれの歴史があり、また多くの魅力的なモノやコトがある。「まとまりがない」ともよくいわれる埼玉県だが、むしろ歴史のなかで形成されてきたそうした多様性こそが埼玉県の特徴といえるのではないだろうか。

映画『翔んで埼玉』を通して、埼玉に興味を持たれたならば、それをきっかけにぜひ埼玉を訪れていただき、本当の埼玉の歴史や文化に触れていただければ幸いである。

佐藤 美弥(さとう・よしひろ)
埼玉県立文書館 学芸員
博士(社会学)。日本近現代史を研究。一橋大学大学院社会学研究科特任講師、埼玉県立歴史と民俗の博物館学芸員を経て、2016年より現職。担当展覧会に企画展「埼玉の自由民権」(埼玉県立歴史と民俗の博物館2015)など。
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