江戸時代までは「小さな領主の土地」が複雑に絡み合っていた

そもそも埼玉県というのはどのような成り立ちか。「さいたま」という地名は古く、奈良時代の文書に現在の埼玉県北東部に設置された郡の名前として出現する(このときは「前玉(さきたま)」という表記)。

江戸時代までは「埼玉」とは埼玉郡の地域を指していたのみで、現在の埼玉県全体が「埼玉」と呼ばれるようになったのはそれほど古い時代の話ではない。江戸時代の現在の埼玉県は古代律令制の時代に設置された旧国名でいえば、武蔵国(むさしのくに)の一部であった。武蔵国は現在でいえば埼玉県、東京都、神奈川県の一部を含む地域である。

廃藩置県直後の埼玉県域諸県(図版=『新編埼玉県史図録』埼玉県、1993より)

しかし江戸時代には、すでに「国」は支配の単位ではなくなっていて、武蔵国には徳川氏が将軍である江戸幕府の直轄の領地、江戸幕府に仕える旗本の領地、そして徳川将軍から領地を支配することを認められた諸大名の領地、そして神社や寺院の領地があった。たとえば現在の山口県は大名毛利氏が、鹿児島県は島津氏が一円を支配していたような一体性があったわけではなく、小さな領主が支配する所領が複雑に絡み合っていたのである。

1871(明治4)年の廃藩置県直前には、武蔵国のうち現在の埼玉県域は、だいたい幕府領、旗本領、大名領がそれぞれ3分の1ほど、のこりの1パーセントほどが寺社の所領であった。江戸時代にはそうした所領ごとに支配が行われた。こうした事情が埼玉県の諸地域の個性を生み出したといえる。

場合によっては埼玉県は「足立県」だったかもしれない

埼玉県域の変遷(図版=『新編埼玉県史図録』埼玉県、1993より)

このような状態に変化がもたらされるのが1868(慶応4・明治元)年の明治維新である。

明治元年、戊辰戦争に勝利しつつあった新政府は、諸藩の領地はそのままに、幕府や旗本の旧領に新たに県を置いた。1871(明治4)年には廃藩置県を行い、藩を県とした。その後、同年10月から11月にかけて大規模な府県統合が行われ、錯綜した支配の解消が行われた。埼玉県は11月14日に誕生、現在ではこの日が埼玉県民の日となっている。

しかし、このときの埼玉県は、現在の埼玉県のうちおおよそ荒川から東側のみであった。それが現在の県域となったのは、後述するようにもう少し後のことだ。また、県庁所在地は当初埼玉郡下の城下町であった岩槻(現・さいたま市岩槻区)に置かれる予定であった。埼玉県の名称はこのことに由来すると考えられている。ちなみに実際に県庁が置かれた浦和は足立郡であり、最初から浦和が県庁所在地に予定されていたら、「足立県」となっていたかもしれない。

このように現在の「埼玉」とは歴史的に形作られてきたものであった。