メディア業界のゴシップ誌だった「噂真」

作家のスキャンダルがタブーになったのは「噂の真相」(以下「噂真」)が休刊したためである。

このことについては後で詳しく触れるが、「噂真」の元編集長、岡留安則が亡くなった。2004年3月に雑誌を休刊して、マリンスポーツやゴルフを楽しもうと沖縄に移り住んだ。3年前に脳梗塞で倒れたと聞いていた。だが、その後肺がんが発見され、治療につとめていたが、1月31日に那覇市内の病院で亡くなったという。享年71。

彼について多くの追悼の言葉が述べられているが、反権力、硬骨のジャーナリストなどという形容をつけた一文を読むと、私は「そうだったんだ」と驚くしかない。

たしかに検事総長確実といわれていた則定衛東京高検検事長の女性問題をスクープした。雑誌発売前に朝日新聞が一面でこの件を報じたため、メディア業界のゴシップ誌だった「噂真」の知名度は一気に上がった。

だが、岡留の雑誌作りの手法は“下手な鉄砲数撃ちゃ当たる”的なもので、タレこんでくる情報はありがたく全部いただく、特集にならない情報は「一行情報」として誌面に載せる(後にはネットにも上げていた)という、破れかぶれなものであった。

2002年3月20日、月刊誌「噂の真相」に虚偽の記事を掲載し、推理作家の家和久俊三さんらの名誉を傷つけたとして、名誉毀損罪に問われた同誌編集長の岡留安則被告らの判決が東京地裁であった。有罪判決後に会見する岡留編集長(写真=時事通信フォト)

当初の「噂真」は、どうしようもない三文雑誌だった

彼が優れていたのは、雑誌が頂点の時に休刊して沖縄へ移り住んだことからもわかるように、機を見るに敏だったところである。

彼は鹿児島県生まれで、法政大学在学中、構造改革左派のプロレタリア学生同盟に参加していたそうだ。卒業後は、出版業界紙の雄、赤石憲彦の「東京アドエージ」に入社、編集に携わる。3年足らずでそこを退社し「マスコミ評論」を創刊する。

そこも離れ、友人知人などから3000万円をかき集め、1979年3月に「噂真」を立ち上げるのである。ノンフィクション作家の本田靖春もこの時、いくばくかの金を岡留に出したといっていた。

彼は、戦後出されたカストリ雑誌「真相」や、作家の梶山季之が個人で出していた「噂」をヒントにして、その二つを並べて雑誌名にしたと、「『噂の真相』25年戦記」(集英社新書)に書いている。

「マスコミが書けない皇室や警察、検察、政治家のスキャンダル、大物作家のゴシップなどを暴露してきた雑誌」(LITERA2月2日より)といわれるが、当初の「噂真」は、ひと言でいえば、どうしようもない三文雑誌だった。

業界の噂話を、取材もしないで載せて省みなかった。私も、現場にいた頃よく書かれた。