上司の草履を懐に入れて温めて、出世を狙いたがるという人が皆無とはいいません。でも、多くの役人にとって、忖度しなければならない状況とは、煩わしくて仕方がないこと。「ルールがあります」と言えば、相手が政治家だろうが、権力者だろうが、拒みやすくなります。

忖度の余地がない明確なルールを作るということは、さまざまな頼まれごとをされやすい政治家にとっても、実は楽なはずです。財政が豊かな時代ならいざ知らず、コンプライアンスも厳しく問われる今の時代では、いくら頼まれても実現できない難しいことが多くあります。「先生の力がないから無理だよね」と言われるより、「今は社会のルールがこうなってしまったからとても無理だ」と言える方が楽なはずです。

セクハラ、パワハラをどうなくしていくか

もう1つは、人の教育です。

次官のセクハラ事件を受け、財務省が幹部にセクハラ研修を行いました。セクハラは、職場の潤滑油でも、ましてやコミュニケーションでもなく、明らかな人権侵害であり、相手を心身共に傷つける行為です。そうしたことに気づかせ、「自分たちの本音(物差し)は通用しない」とわからせる教育は意味があります。

セクハラをする人たちは、「そんなことはわかっているよ」と言いがちですが、腹の底からわかっているとは思えません。「建前ではだめだと言っているけれど、よくあること。そんなに悪いことではないはずだ。こんなものだよ世の中は」。自分勝手にそう思いがちです。でも、そうした考え方は通用しないし、時代は変わっているのだと、具体的に教えるのです。

パワハラもそうです。当人たちは「仕事熱心さの表れ」だと思っているけれど、それは大いなる勘違い。明らかに、背後に権力構造があって、自制心の欠如がうかがえます。なのに、当人たちにその自覚がない。こうした状況では、「パワハラをする人は出世させない」という明確なルールを作ってしまうのが最も効果的ですが、教育も十分、やる価値があります。

「システム」と「人」の両面で不祥事を防げ

一方、もしも失敗した時、間違ってしまった時に、「やり直しがきく」「また頑張れる」と思わせ、そうできることを教える教育も重要です。それには、失敗してもやり直しがきくような社会の環境、社会の構造を作っておかなければなりません。許され、立ち直る機会があるとわかれば、人はまた歩き出すことができます。

研修や教育なんてあまり意味がないという声もあります。でも、お金と時間をかけて何度も研修を実施すれば、組織がその問題を重視していること、それをないがしろにした時には組織は守ってくれないということが浸透していきます。だからこそ繰り返し研修し、教育することが大切です。

建前と本音の使い分けをやめて、建前を本当の意味での「本音」に転換してしまう。それを「システム」と「人」の両面で実現して不祥事を防ぐのです。