「おい、社長だぞ。上役の悪口でもなんでも言っちゃえ」

副社長を務めている河合満はたたき上げの職人だ。河合が鍛造工場の現場で働いていたときも、英二はたったひとりで現場にやってきた。

「昼休みに工場の隅でタバコを吸っていたら、英二さんがひとりで入ってきて、『新しい機械を見せてくれないか』って。あわててタバコを消して、機械のところに連れていったんですよ。英二さんは機械をほれぼれと見ていて、触って、『これを使いこなせるといいな』って。帰りにまだ若造だった僕に、『今日はありがとう』って帽子を脱いで、直立不動で深々と頭を下げる。いやあ、あれにはびっくりしました」

現在の社長、豊田章男もまた時間が空くと、現場に来る。副社長の河合の部屋をのぞいて、「河合さん、一緒に行こうよ」と工場へすたすたと歩いて行く。

現場の主のような職人副社長の河合は工場に入ると、大声で叫ぶ。

「おい、社長だぞ。みんな集まれ。何を言ってもいい。上役の悪口でもなんでも言っちゃえ」

現場の若い作業者が集まってきて、章男を囲む。章男は自ら話をするよりも、彼らの話に耳を傾ける。時には相談に乗る。トヨタは30万人以上も従業員がいる会社だ。けれども社長は雲の上の人ではない。生産現場にいれば、ふらりと訪れてきたトップと仕事の話や世間話ができる。トヨタはそういう会社だ。

経営者の仕事とは、現場のみんなを幸せにすること

豊田章男は、2010年2月24日にアメリカ下院の公聴会に出席、説明を行った。(AP/AFLO=写真)

2010年のこと、トヨタはアメリカで車の品質が問題となり、豊田章男は下院の公聴会に呼ばれた。彼は議員たちから厳しい質問を浴びせられたが、時に毅然として対応した。公聴会が終わり、アメリカの従業員を集めた会合の席で彼はこんなスピーチをしている。

「みなさん、公聴会では私はひとりではありませんでした(I was not alone)。あなたたちがそばにいてくれました。ですから、何もつらいことはなかった」

日頃から現場を訪ね、若い作業者と言葉を交わし、冗談を言っては肩をたたいて笑い合ったりしているからこそ、こういうフレーズが出たのだろう。

経営者は孤独ではない。孤独だと思っている経営者は粋がって、格好をつけているだけだ。経営者は現場の人間に寄り添い、現場のみんなを幸せにするのが仕事だ。

野地秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年、東京都生まれ。早稲田大学商学部卒、出版社勤務などを経て現職。人物ルポ、ビジネス、食など幅広い分野で活躍中。近著に、7年に及ぶ単独取材を行った『トヨタ物語』(日経BP社)がある。
(写真=毎日新聞社、AP/AFLO)
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